皆様の声・体験談

佐藤和男さん(仮名)の場合

 95年の暮れ。佐藤和男さん(仮名)は足腰が痛み、ひとりで車にも乗れなくなり、最終的には車椅子を使うまでになっていた。病院に行き検査をすると、前立腺がんのステージⅣと判明。骨シンチ検査で首、肩、腰など全部で20か所の骨への転移も見つかった。

 主治医は『告知はやめましょう』と奥さんに言った。そのかわり本人には前立腺の病気だからと話し、ひと月に一度の点滴を続けていくか、睾丸を切除する手術にするか選択させた。和男さんは手術を選んだ。だから抗がん剤や放射線治療は一切やらなかったことになる。

 翌年1月。術後すぐに友人の勧めで日本冬虫夏草を飲み始める。病院からは毎日服用するようにと薬を渡されたが、その後もっとよい薬が出たからと取り替えられた。これが、男性ホルモンの作用を抑える前立腺がんの薬で、重篤な劇症肝炎を引き起こし、死亡例が8例あったとしてのちにマスコミに取り上げられた薬である。奥さんはニュースを見てはっとしたという。和男さんは2年10か月もの間服用し続けた。悪い所を治そうとしてほかに悪い病気を作ってしまうがんの薬物治療の現実をつきつけられた。幸い和男さんは肝機能に問題は起きなかった。
 
 病気知らずで薬を飲んだこともなく、タバコは15年前にやめ、お酒もほどほど。発病の原因は何だろうと考えてもはじめは思い当たらなかった。ただ次第に責任あるポジションを与えられるようになり、部下の面 倒もよくみる人でがまんすることも多く、肩書に関係なく誰よりも仕事をするような人だったから、知らぬ 間に無理が重なっていったのかもしれない。 そんな人が発病を機に仕事をすべてやめたことで精神的にずっと楽になっていった。また、主食を胚芽麦にするなど食生活も変えていった。

骨転移の17か所がきれいに消失。3か所も消えかかっている

 98年8月のCT検査では『どこにも問題はありませんよ』と言われるまでになった。腫瘍マーカーも正常値になっていた。そして骨シンチ検査では骨転移20ヵ所のうち、17か所がきれいに消失していた。3か所だけは影が写 ったが、とても薄く変化していて、ぼんやりとしたものだった。まさに消えかかっているというような感じだった。傷もしばらくは跡が残っているのが当たり前。だから心配はしていない。何よりも歩けなかった和男さんが、前立腺や骨が正常に戻ったことを実証するかのように、現在はスタスタと早足で歩くようになった。「私はおいていかれてしまうの」とうれしそうに奥さんは話す。和男さんは散歩を日課にして、毎日元気ですごしているそうだ。

朝日ウイル(北燈社)1998年11月3日号より  

 その後、骨シンチの再検査は必要がないということで行っていません。それというのもそれ以降7年間、再び骨が痛むこともなければ歩行困難になることもなく、「あの20か所の転移はすべてきれいに治ったんでしょ」というのが主治医も含めた周囲の見解だそうです。

2000年11月    

 以前ここで紹介した佐藤和男さん(81歳・仮名)は、ステージⅣの前立腺がんから生還し、今年で7年目を迎えたそうです。当時は、20か所に及ぶ骨への転移もあり、車椅子のお世話になる程でした。家族の皆は死を覚悟し、それでも諦めきれない奥さんの美知子さんは、ホームドクターとしての役割を担うことになります。

 今年の6月に和男さんのこれまでの仕事が認められ、表彰されて、その時の晴れやかなお二人の写 真が届きました。そこで、これまでどれほどの苦労と努力があったのか、美知子さんにうかがいました。

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インシュリンの注射からも解放

 「前立腺がんと知った時、親戚の人の薦めで日本冬虫夏草を試すことにし、いろいろな人の知恵を拝借しました。お酒もタバコも止めてもらいました。でも何より苦労だったのは食事の支度です。胚芽押麦を混ぜた主食に1日30種類の食材を使った料理、海草、納豆、梅干は毎日、持病の糖尿病を抱えていたので、これに食事時間の厳守とカロリー制限が加わります。焼き魚の切り身が半分だけだと見た目が寂しく不機嫌になるので、大きい切り身を並べて、食事中に『半分ちょうだい』と言って分けてもらったり、果 物が大好きで毎日リンゴを3個も食べるような人でしたから、わずかな果物をヨーグルトに混ぜて量を増やす工夫もしました」

 その甲斐あって、骨の黒い影は消失していき、しっかりと歩けるようになり、1日3回のインシュリン注射からも解放されました。同じ病気を持つ人達から『そんなこともあるんだね』と不思議がられました。あれから再発もありません。まだまだ油断できず、美知子さんの任務は続いているわけですが、何が彼女をここまでさせてきたのか知りたいと思いました。

 「主人は発病した時、80歳までは生きたいと言いました。それを叶えてあげたいと思いました。インシュリンの注射は見てる方が辛く、早く解放してあげたいと思いました。主人のために良い思い出を作りたいと思いました。今日の日は明日になれば思い出になる。機会があれば逃さず、月に一度は近くの温泉に泊まりに出かけます。二人だけだったり、子どもや孫が参加したり、メンバーは常にバラエティに富んでいます。でもね、これは自分自身のためでもあるのです。あの時ああしてあげればよかった、こうすればよかったと悔いを残したくなかった。それは自分が健康であればこそ叶うもので、病気をして主人やほかの家族に迷惑をかけないためにも、日々緊張感を持って生きています。そのために食生活は深く関わっていて、若くて元気な頃は大概無頓着ですが、これは後で大きな代償を払うことになりかねません」

 がんを克服された人の中には、夫婦や親子、兄弟姉妹、友人など形はさまざまですが、良いパートナーに恵まれていることが多いように思います。一日一日を精一杯生きて、1年の終わりの除夜の鐘を一つ一つ感謝の思いで聞いているうちに7年の月日が流れたというお話でした。

朝日ウイル(北燈社)2000年11月14日号より

N.M.I.
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