皆様の声・体験談

河原塚好光さんの場合

 「あれは、1995年の夏の出来事でした。電気工事の仕事がかち合って人手が足りなくなり、経営者である私も率先して現場に出ていました。その年はとりわけ暑くて、30度を超える日は連続して38日。そのうち猛暑日が23日。ヒトの体温と変わらない36度を超える日は7日間もあったのです。

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 7月、誰もいない工場での天井付近の高所作業は、まるでサウナ風呂に入ってるかのよう。汗ぐっしょりになって水をゴクゴク飲み、またそれが汗となって吹き出るという繰り返し。次第に体力が消耗していくのを感じていました。そして、その頃から少しずつ咳も気になるようになっていきました。

 8月に入ってからも、ゆっくり休むことはできませんでした。伯父が亡くなったことや、町内会の区長代理で行事に参加しなければならず、土日の休日も返上で動き回っていました。8月下旬の炎天下での防災訓練では、とうとう立っているのもしんどくなって、テントの日陰で休ませてもらいました。さすがにこれは尋常じゃないなと思い始めたのは、打ち上げのときでした。タバコの煙に気持ち悪くなり、ビールは苦くて口をつけられないのです。それまでは、タバコは日に15〜16本、お酒も人並み以上に飲めてましたからね。それからが、病院から病院への漂浪の始まりでした。4軒巡っていずれも『夏風邪でしょう』の診断。体調は一向に良くならず、診断に納得できないまま時間だけが過ぎていったのです。

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写真中央が河原塚好光さん

 8月の末、頭の芯までズキズキするひどい頭痛に襲われました。咳も続いていて、痰には赤い血が混じることもありました。ソファで休んでいると、『仕事にまだ行かないのか?』と父の声。フラフラしながら体温を測ると、39度の高熱。5軒目となる個人病院に駆け込みました。

ここで初めて血液検査とレントゲン検査を行いました。『先生、これ大変です!』と看護師さんの声が聞こえました。先生は、すぐに肺がんだとピンときたようです。写真には肺が真っ白に写っていました。そして医師会でやっている大宮の病院を紹介されたのです。

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紹介された病院では、先の検査を踏まえ、さらに痰検査を念には念を入れて3度行いました。その結果 、いずれもがん細胞が検出され、肺がんが決定的になりました。家族には、『肺の中葉部にがん組織があり、肺腺がんで手術は不可能、余命3か月の末期』と報告がありました。家族は担当医と話し合って、当人には真実を伏せておこうと決めたそうです。

そういうわけで私に告げられたのは、マイコプラズマ型の肺炎という病名でした。私はといえば『肺炎ぐらいだったら自宅療養させてください』とごねて、『ひょっとしてがんなんでしょうか!』と問い詰める始末です。『こじれた肺炎ですから』と説明するのが精一杯だったように思います。

 入院して2~3日安静にしていると、落ちついてきて少しずつ食欲が戻ってきました。間もなくして弟があるものを携えてやってきました。そして体力をつけるものだから毎日飲むようにと差し出したのです。それが私と日本冬虫夏草との出合いでした。

実は、弟は妻を大腸がんで亡くしています。末期で手遅れでした。それでも痛みはなくて安らかな最後を迎えたのを彼はつぶさに見ていたのです。私は、日本冬虫夏草を使っていたのを聞いて知っていました。私にがんを連想させないようにごまかして渡してくれたのでした。同じものとは気付かず、勧められるまま飲み始めました。1日700ccは飲みました」

朝日ウィル(北燈社)2004年4月27日号より

 「今思えば抗がん剤だと思うのですが、身体に入れた瞬間に大変痛い薬剤がありました。痛みを訴えると『辛かったら止めましょう』と言ってくれたので、すぐに中止してもらいました。それでも合計で2本半は投与したと思います。

黒いレバーのような塊を口から排泄。がん消失

 入院から12〜13日目のことです。咳き込むと同時にどす黒いレバーのような固まりが口から出てきたのです。このようなことは3回ありました。その後はつかえていたものが取れたようにスッキリと感じました。そして入院から14日目のこと。ファイバースコープで肺の中を調べる検査がありました。

先生はモニターを見ながら不思議そうに『おかしいなぁー。ここにあるはずなんだけど何もないなぁー』って言うのです。がんが跡形もなく消えてしまったのです。それでも先生は、告知してない私に『がんが消えた』とは言えない。全てのいきさつを家族から聞けたのは退院後のことです。

その後、同部屋(入院時)だった人たちに再会する機会がありました。『こういうわけだ』と打ち明けると、皆が『肺がんだって知ってたよ』と言うのです。先生の態度や言葉の端々から読み取れたということでした。退院後の治療は一切ありませんでしたが、先生は『何かあったらすぐに来るように』と1年間は大変心配してくれていました。1か月おきの検査が2か月おきになり、3か月おきになってなって、5年で無罪放免になりました。日本冬虫夏草は量を減らしながらも5年間飲み続けました。

【経 緯】

1995年9月4日 入院。肺がんで余命3か月と家族に知らされる。氷枕、点滴、午前と午後2回の吸入。
9月6日 食欲が出てくる。
9月8日 日本冬虫夏草を飲み始める。
9月11日 熱がすっかり下がり、平熱に。
9月16日 咳とともにどす黒いレバーのような塊が吐き出される。
9月17日 同じく吐き出す。
9月18日 ファイバースコープで検査。あったはずのがんが見つからず消失。
9月20日 退院。

体を酷使するのをやめた。無理をしない生き方に変えた

 それまでの私は、経営者としての責任もありましたし、ずいぶん体を痛めつけて生きてきたと思います。それを振り返って生き方を変えなければまた再発ということになりかねません。40代の頃は、1週間、夜寝ないで働いても大丈夫でした。電気工事は、工場や店舗では夜中に集中して行うため、そういうことも度々でした。

そんな体力も年齢とともに落ちていくのが当たり前なのに、同じようにできると過信していました。つまずいてみて初めて気付かされます。体は自然物だからその自然の流れに逆らえば、その無理は必ず病気となって現れます。年齢とともに仕事のやり方も変えていかなければ...

思い切って電気工事部門を縮小しました。そして新しい仕事に着手しました。できる限り指示を出すだけの役目に徹し、社員に働いてもらうことにしたのです。不思議なもので仕事は次々と舞い込んでくるようになりました。おかげさまで会社の経営は大変順調にいっています。町内会の区長代理と地域の企業協会の事務局長も辞任しました。がんにならなかったら現在の穏やかな生活はなかったかもしれません。

 健康のためにやってることがあるとすれば、犬が3匹いるので朝晩の散歩でしょうか。自宅では他にジュウシマツやインコ、卵を食べて体力をつけるようにと友達がプレゼントしてくれた烏骨鶏がいます。動物とのコミュニケーションは何にもましてリラックスして幸福な気持ちにさせてくれます。食事はあっさりした和食を好んで食べていますね。魚は食べますが、動物性の肉は嫌いになり、食べられなくなりました。自然とこういう食事になっていきました。病気をしてからはタバコの煙がダメになりましたし、お酒も前のようには飲みたいと思わなくなりました。

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 周囲にがんの人がいれば、自分の経験を話させてもらっています。すると皆、不思議と治っているのです。これもがんにならなかったら得られなかった喜びですね」

朝日ウィル(北燈社)2004年5月25日号より

 「がんが消失してから、再発なく元気に今年で10年を迎えます。仕事は忙しいですが、この夏も無理せずできるだけ体をいたわるように心掛けています」

2005年6月26日のお電話より

 「埼玉では、本日、気温37度・湿度75%を記録いたしました。職場はまるでサウナに入ったようです。私の身体もすっかり丈夫になり、暑さにも負けずに頑張っております」

2006年6月28日のお便りより

 河原塚さんよりご自身で栽培した見事なジャガイモが届きました。「毎日が慌ただしく過ぎていきますが、もうサクランボの季節だったんですね、私も毎日元気に暮らしておりますのでご安心ください。最近、庭に小さな畑を作り、野菜を育てて楽しんでおります。この度ジャガイモを収穫いたしました。完全な無農薬の有機栽培ですので安心してご賞味いただけますようお届けさせていただきます」

2007 年7月1日のお手紙より

 「4月下旬には、卒業から50年目の中学校の同窓会がありました。久しぶりに合った懐かしい友も皆、お爺さん・お婆さんになり白髪頭に禿げ頭が目立ってきました。皆、私生活にゆとりの生まれる時代に入り、私にも良い友が1人増えました。連休には、岐阜に転勤している息子家族が帰省いたしました。今までは恥ずかしがりやの孫娘も2歳と4か月になり一層可愛さも増し、楽しい日々を過ごしました。

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体力も弱くなった昨今、仕事はやめようかと思いましたが、周囲から『続けた方がいいよ』との助言もあり、ペースダウンして続けております。ストレスを貯めないよう慌てないでゆったりと過ごしております」

2008年5月15日のお手紙より

 「連日の暑さは、発病した1995年当時を思い起こさせます。当時と違うのは、無理な仕事はしていないということです。ゆったりと過ごしております。再発なく元気に15年が経とうとしています。

 この頃は余裕ができた分、飛べなくなった野鳥を自然界に返すというボランティア活動(県の委託受けて)をしています。世の中には野鳥を不法飼育してる人がいます。野鳥を捕獲するのも飼育するのも犯罪です。被害にあった野鳥は飛ぶことも自分で餌をとることもできなくなっています。それをリハビリによって復活させるのです。元に戻すまで約1年の時間を要します。

まずは、狭いカゴに入れられて飛ぶ力がなくなってしまった鳥を徐々に広い小屋に移しながら大空を飛ぶことが出来る様に。そして、野外ではカラスなどの外敵の餌食にされぬ様、素早い行動が取れる様に。人工の餌に慣れてしまった野鳥を虫やミミズなどの自然なものが食べられる様にとリハビリを施していきます。

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コツは過保護にしないことですね。自然は厳しいですから。自然の中で本来の生活をするのが彼らにとって一番の幸せですからね。私にとってもその門出を見届けるのが何よりの幸せです。しかしながら全てが野生に戻れる訳ではありません。翼を失ったもの、体が変形したりで野生に戻れずに当家が終の棲家になり、終生飼養になる鳥類の多数いる事に心が悼みます。世話になった世の中に、何かの形で恩返しをしたいという気持ちでやっております」

2010年8月11日のお話より

坂東三十三観音巡礼の旅にでる

 「2012年6月の中旬に亡き母の一周忌の法要が、親戚・隣組・母の友人など大勢のご臨席を頂きしめやかに執り行われました。命日は7月3日ですが、土日の良い日という事を考慮した結果の日程でした。葬儀が終わってからも中々外出する気になれないで居りましたが、是を機に母の冥福と家族の健康を願い、坂東三十三観音霊場めぐりを行いました。

神奈川県の杉本寺が圏内最古の寺で、札所の1番寺となっております。この先、埼玉・東京・群馬・栃木・茨城・千葉と回り、中間に番外ですが巡礼の寺とされている銚子の満願寺を参拝して、結願寺の33番札所は千葉県の館山にある那古寺です。どの寺も、歴史ある堂々とした佇まいで空気が清々しく、心洗われ、まるで異世界にいるような気がいたしました。

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 この旅は単なる観光ではなく、母が無事極楽浄土に行ける様、私が健康で、家族・家庭の安泰を願い、そして社業がますます繁栄するようにと願いを込めた巡礼の旅といたしました。寺院ではまず手水所で自分を清め、般若心経・観音経を唱え、ご本尊である観音様に願い事をいたしました。観音様といっても一人ではなく寺院によって様々です。多く目立つのは十一面観世音菩薩が多く、次いで聖観世音菩薩、千手観世音菩薩です。正観世音菩薩、延命観世音菩薩が一箇所づつでした。行程は電車・バス・タクシー・車・駅から歩きでと様々で、ガイドブックを片手に、行く先々では地元の皆様に丁寧に道案内をしていただき本当に助かりました。

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栃木の大谷観音は、大谷石の岩壁に何体もの仏像が浮き彫りにされて、その岩壁に寺院の建物が建立されておりました。茨城の楽法寺では、孔雀が3,4羽放し飼いにされていて参拝客の間を自由に歩いておりました。また、千葉の満願寺の近くには、地球が丸く見える丘公園があり、360度水平線と地平線が見渡せ、『本当に地球は丸い!』と印象的でした。

後悔なく両親につくす。河原塚好光さんからの手紙

 「1995年に、私が体調を崩して肺がんになったのを機に、町内会の区長代理と地域の企業協会の事務局長を辞任いたしました。それから、間もなく1年が経とうとする頃、父親が末期のがんで闘病生活に入り、昼は母、夜は私が病院に詰めておりました。普段は頑固な父親でしたが、すっかり気弱になり仕事先に『すぐに来て』と頻繁に電話が入るようになりました。弟と妹が居りますが、気難しくて対応ができないみたいでした。日本冬虫夏草を飲ませようとしましたが、体に入っていきませんでした。

7月の町内の祭礼(当時年行事)の翌日。『今日はずっと此処に居るよ』と言ったところ、安心したのでしょうね。安らかな寝息が聞こえてきました。その後、しばらくして痰が絡むようになり、喉がゴロゴロ鳴り出しました。心配になり先生に診察して頂いた所、胃液が逆流して肺の組織を侵している危篤状態とのこと。家族・親戚に連絡を取り父の元に戻ったのが夜の7時過ぎ、昏睡状態でした。

 家族・親戚等が身守る中、『爺ちゃん、みんな来てるよ、良くがんばったね、もういいよ』と耳元で囁くと、まるでローソクの火が消えるように静かにスーと息を引き取りました。

 その後、相続問題、社業の方向転換等相当な試練がありました。電気工事でお世話になっているお客さんの所で最新式の効率の良い機械に入れ替えることになり、従来の機械を戴けることになりました。理由は機械の修理・調整を自社でできるので、後々の世話をしないですむからだそうです。この機械はポリエチレン袋の製袋機でスーパー・お店で買い物したときにレジで渡す袋を作る機械です。1台また1台と増え、何時しか一番若く、小さい外注先だった我社が他社に勝るとも劣らぬ会社になりました。

それから数年経ち、親会社の周りには住宅が立ち並び、騒音による苦情が出始めました。市街化区域に指定され、税金の高騰もあり、会社の移転もやむなしとなってしまいました。。親会社は系列の宮城県にある仙台工場と統合されることとなり、当社は埼玉方面のセンター工場となり、材料・資材の中継をすることになりましたが、国会でレジ袋削減の法案が通ると一気に受注が激減してしまいました。当社の機械はレジ袋専用機のため、他の仕事に転用できず廃業に追い込まれました。その後は、アパート・駐車場の運営・管理をしながら電気工事の仕事をしています。

 こうして、仕事が一段落した頃、母を連れて良くドライブに行きました。車で出かけるのはすごく楽しいようでした。『今日は暇?』と尋ねる母に『何処か行く?』と聞くと、『うん』と答えて子供のように喜んでくれました。

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そんな母も一昨年体調を崩し通院していましたが、大正生まれの我慢強さが災いして、正直に症状を言わないので病気を見つけられず、判った時には消化器全般にがんが広がり、手術も出来ないほどでした。腸を切り詰め、人工肛門にし、お腹には膿を排出するチューブを挿入された姿を見たときには言葉を失いました。主治医から余命半年と告げられました。

傷口がきれいになり退院する事になりました。施設に行くか自宅に帰るかの選択を求められ、私たちは、訪問介護を受けながらの自宅療養を選びました。少しで間長く傍に居てあげたい。自分のベッドで寝かせてあげたい。どんな看病でもする覚悟で、家族みんなで頑張りました。もはや日本冬虫夏草を飲むことは出来ませんでした。

 ちょうど私の仕事が一段落したときに、二人とも永眠したんですね。このタイミングは仏様の引き合わせでしょうか。悔いることなく看取ることが出来ました。二人とも痛みはなく、安らかな最期でした。

 坂東三十三観音巡りは、10日間ぐらいでしたが、山の上にあり参拝も大変でした。家内と娘を連れて行きましたが、両者とも1日でリタイヤでした。良く結願出来たと我ながら感心しております。幼馴染は『あんたはお母さん子だったからね』と笑っていました。

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 私のがんが消滅してからすでに17年が経ちますがまだまだ元気でやっております。元気の秘訣は散歩です。毎日朝・夕2回愛犬と歩いております。黒の豆柴です。家では番犬ですが、散歩の時はかわいいワンちゃんです」

2012年11月18日のお手紙より

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サクラちゃん(2歳)

 「今年の3月で同窓生は満70歳(古希)を迎えます。昨年の10月頃より計画しておりましたが、年明けと共に計画が急ピッチで進んでいます。同窓生・恩師を合わせて120名余りおります。目下、『幹事さんご苦労様。楽しみにしております』のメッセージを頂き、十数名の役員と増々張切って準備をしております。会長とは名ばかり。スタッフの皆様方の協力に掛けております」

2013年2月3日のお手紙より

 「庭の甘柿がたわわに実りました。ちょうど食べ頃です。主人にもいでもらって送らせていただきます。家族皆元気でおります。」

2013年11月9日の奥様のお話より

 とても甘く美味しい柿でした。ご馳走さまでした。

 「地元の神社の要請を受けて、まつりばやしの伝承をすることになりました。子供たちに笛、太鼓、鉦(かね)等の演奏を指導するのです。子供たちと楽しい時間を過ごしています」

2014年7月23日のお話より

 「天候の良い日を選んでお寺巡りをしています。主人はいつも元気に出かけて行きます。がんの消失から19年が経ちました」

2014年11月20日の奥様のお話より

 「スポーツ吹き矢を始めました。体も鍛えられています。肺活量も増えました。風邪もひかなくなり、すこぶる元気でおります」

2015年6月19日のお話より

 「スポーツ吹き矢の競技会に頻繁に参加しております。賞品もいただいてきてるようです。プレハブ小屋の2階に練習場を作りました。車4台分が入るスペースで、以前は倉庫として使用してた所を片づけたのです。肺が丈夫でなければできない競技です。余命3か月の肺がんだった人とは思えません」

2015年11月15日の奥様のお話より

 「スポーツ吹き矢に変わらず元気に取り組んでおります」

2016年6月22日の奥様のお話より

 「スポーツ吹き矢の練習は、12時半から15時までほぼ毎日やっています。この2時間半は休みを取らずぶっ続けです。午前中は『一日休むと大変になるから』と言って、庭の掃除や草取り、剪定も毎日欠かすことはありません。8月に白内障の手術をしてから、良く見えるようになり、これまで以上に的に命中するようになりました。来年10月で75歳になります。ますます元気でやっております」

2016年11月18日の奥様のお話より

 「スポーツ吹き矢の競技会に頻繁に出場しています。この競技には段などもあるようで、指導者目指して努力を重ねているようです」

2017年11月24日の奥様のお話より

 「指導者の資格を取りました。この頃は、スポーツ吹き矢を始める方達も増え、今日は、4人の新人さんを指導するということで出掛けました。その後、体操をやってから帰ってきます。自宅に着くのは夜11時を回ってからです。夕方のスケジュールには、子供たち向けにまつりばやしの指導も入れていますからいよいよ心配になり、『やり過ぎないように』と釘を刺します。でも聞く耳持たずです。元気だから好きなことをやれてるのでしょうね」

2018年6月21日の奥様のお話より

 「主人は庭の手入れに精を出しております。枝おろしです。そういうわけで吹き矢の方はここ二週間ほど休んでおります。76歳になりましたが、変わらず元気でおります」

2018年11月24日の奥様のお話より

 「スポーツ吹き矢を始めてから、風邪を引かなくなりましたし姿勢も良くなりました。ヨガや気功に通じる呼吸法を取り入れており、スポーツ吹き矢の最大の特徴は呼吸法にあります。青柳清医師と聖路加の日野原重明先生が健康法として開発したスポーツです。

スポーツ吹き矢式健康法とは

 『スポーツ吹き矢式呼吸法というのは、胸式呼吸と腹式呼吸の両方を行う呼吸で、呼吸に関わる筋肉をすべて活用する呼吸法です。息を静かに細く長く吐き、自然に息を吸い、一瞬止めてから的に向かって(短く一気に)吐き出す特有の呼吸がスポーツ吹き矢式呼吸法で、基本動作を行えばこの呼吸法が自然にできます。スポーツ吹き矢式呼吸法では、特に腹式呼吸を大切にしています。

ただし、通常の腹式呼吸がゆっくり吐いてゆっくり吸う呼吸の繰り返しに対し、スポーツ吹き矢式呼吸法では、矢を吹く瞬間、お腹を引っ込めて一気に吐き出します。この一気に吐き出すとき肛門をグッと締めるようにするとより健康効果が高まります。この刺激によって血液が心臓から全身へと勢いよく流れていくのです。

この時の筋肉の働きを見ると、腹筋を使って横隔膜を押し上げることによって内臓が刺激され、呼吸筋が刺激されます。さらに矢を吹く瞬間は骨盤底筋や肛門括約筋を使いますから、これを繰り返すことによってこれらの筋肉が鍛えられます。 このように一見、静のスポーツのようにみえながら、実は動の部分も併せ持つのがスポーツ吹き矢で、これがスポーツ吹き矢式呼吸法の特徴なのです』

河原塚さんから頂戴した資料より

 障害者でも出来ますし、車いすでも出来ます。年齢も関係ありません。さまざまな垣根を越えた交流が可能です。私は現在、指導者として普及にも努めています。スポーツ吹き矢は日本初のスポーツで全国的に広がっています。将来はパラリンピックの種目として採用される可能性があります」

2019年10月16日のお話より

 「主人は、このコロナ禍のせいで3月からスポーツ吹き矢の活動等を休止しています。そのかわり、庭の手入れに専念しています。どんな小さな雑草も取り残しがなく、その徹底ぶりには感心するほどです。変わらず元気でおります」

2020年6月16日の奥様のお話より

 「昨日はスポーツ吹き矢で、今日は紅葉の写真撮影で出掛けています。市の写真クラブに所属していて、車にメンバー4人乗せて運転手になって朝早く出発しました。泉福寺や丸山公園などを回るようです。相変わらず好きなことにアクティブに動いております。人生を楽しんでおります」

2020年11月17日の奥様のお話より

 「この頃はスポーツ吹矢の活動を休止してますが、変わらず元気にしています」

2021年6月25日の奥様のお話より

 「紅葉が美しい季節になりました。この度は、近くの森林公園では夜間ライトアップされていてその情景を撮影しに出掛けています。78歳になりましたが、相変わらず運転手となって仲間4人と連れ立って出発しました。みんなのために尽くす性分は変わりありません。いずれにしてもとても元気なもんだから若い人からも誘ってもらえてるようです」

2021年11月18日の奥様のお話より

 「そばの花が美しい季節になりました。今度は秩父の山の中にいつもの仲間と出かけています。主人は秋の写真展に出品するためとても意欲的です。

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アクティブな姿勢は衰えることを知らないようです。背中もまっすぐで足の衰えも感じさせません。愛犬のサクラは11歳になりました。サクラとの毎日の散歩も若さを保つ秘訣かなと思っています」

2022年6月20日の奥様のお話より

 「この度、市から金婚式のお祝いの賞状が届きました。主人がこっそり申請していたようで、私にとってサプライズでした。どちらも欠けることなく50周年を迎えられて、つくづく健康に感謝しているところです。先月は、コスモスの写真を撮影に、仲間と遠出していました。今月の末に展覧会を控えています」

2022年11月14日の奥様のお話より

 

 「今日は、仲間と森林公園に写真撮影に出掛けています。今年の10月で81歳になります。変わらず元気で人生を楽しんでいます」

2023年6月22日の奥様のお話より

 

N.M.I.
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