皆様の声・体験談

斎藤正子さん(宮城県在住 2025年に100歳)の場合

 お嬢様からお話を伺いました。

 「母は、2025年の4月、ついに100歳の大台を超えました。これまで様々な節目を乗り越えてきました。

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 2001年頃、大きな病気をしたことのない母が卵巣嚢腫になりました。すぐに日本冬虫夏草を飲ませました。『飲みにくくないわ』という感想でした。

手術をすると、先生が『嚢腫どころか、卵巣自体も消失してたんですよね』と不思議がっています。母にそれが伝わると『日本冬虫夏草のお蔭だわ』といいました。

開腹手術でしたが、そこからの回復速度はすざましく、本人も自覚しており、またしても『日本冬虫夏草のお蔭だわ』というのです。

 96歳の時に、胆のう捻転症を患い、開腹して胆のうを摘出しました。術前から日本冬虫夏草を飲んでいます。そこからの回復速度はすざましく、またしても『日本冬虫夏草のお蔭だわ』というのです。

高齢になると、手術がきっかけで寝たきりになる方が少なくありません。回復の速さは若さを得るのと同じと思いました。

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お孫さんとご旅行中の斎藤正子さん
二度の開腹手術のうち一度目の後
78歳の頃

母が体験した東日本大震災

 さて、母の人生を語るうえで東日本大震災の経験を外すことが出来ませんのでお話しします。
 
 捕鯨船に乗って南氷洋(南極海)へと出かける父のもとへ嫁いだ母は、長い航海の間、代わりに家を守ることと、本家の嫁としての責務を同時に背負うことになりました。母は、慣れない暮らしの中で様々な雑務に追われ、『思っていた生活とは違う』と戸惑いながらも、懸命に日々を支えていたようです。

姪っ子たちとも一緒に暮らし、家の中はいつも子どもたちの声でにぎやかでした。近所にお風呂のない家があれば『どうぞ入っていってくださいね』と声をかけ、分け隔てなく人を迎え入れる母の姿に、優しさとたくましさがにじんでいました。

 父が船を降りてから、両親は長年暮らした海辺を離れ、少し内陸の町へと移り住みました。そこは潮の匂いが薄れ、穏やかな川の流れや四季折々の景色が広がる土地でした。やがて、私の兄がその地で念願の書店を開くことになり、両親も店の営みに関わるようになりました。

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母は持ち前の明るさと人懐っこさで、店先に立つたびにお客様と笑顔で言葉を交わし、町の人たちからも親しまれていました。父もまた裏方として支え、店は家族の拠点となっていきました。

けれど、両親にとって生家は心のよりどころでした。いつでも帰れる場所として、その家を別荘のように残し、折にふれては帰って手入れをし、思い出をつなぎとめていました。母にとっては特に大切な居場所であり、静かな時間を過ごすための隠れ家のようでもありました。

 そして、2011年3月11日。母は兄と偶然その生家に滞在していました。私用で外出してたため、運転する車中で大きな長い揺れを感じました。生家に到着して、兄は『駐車場に車を置いてくるから、ここで動かないで』と言い残し、母のもとを一寸離れました。ところが戻ってくるとすでに姿はありません。

津波はもう押し寄せてきています。兄は『なぜ傍を離れてしまったんだ!バカヤロー、守ってやれなかった』と自分のふがいなさに心が張り裂けそうでした。

一方、母は、生家の前で待機していたものの、裏の崖が崩れてくると判断し、海に向かって走り出したのでした。パニックになっていたのだと思います。

消防団員は、海岸から山の方に向かって地引網をかけるかのように、途惑う人たちを引き上げていきました。母もその網にかかりました。すかさず母を見とがめ、「海に行ってはダメです!」と声を張り上げ、消防車に抱きかかえて乗せてくださったのでした。素晴らしいチームワークでした。その一部始終を、近くで避難しようとしていた人が見ていました。津波は生家の一つ前の家まで押し寄せて止まりました。高台にあったためかろうじて難を逃れたのです。

兄は、絶望し、打ちひしがれ、ただ呆然と立ち尽くしていました。灰色の雲が垂れ込め、雪もちらついています。そんな兄に声をかけてくれたのが、母を見届けていた方でした。 『お母さんなら消防車に乗せられて行ったよ。避難所にいるから、探してごらん』。すでに空は暗くなりかけていました。

眼前に広がるのは瓦礫の山。幹線道路を使っての避難所巡りは不可能です。電気は止まり、通信手段も断たれ、水道も止まっています。いきなり太古の昔に放り出されたかのようでした。

『暗闇とはこういうものだったんだなぁ。明るくなるのを待って、裏山を超えて避難所に向かおう』暖房のつかない部屋で一人、こごえながらも希望を持ち続けました。闇の向こう、ふと見上げた空は厚い雲が晴れ、信じられないほどの星々が瞬いていました。日常の明かりに隠されていた太古の宇宙の輝きが、この夜ばかりは、はっきりと息づいていました。

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 空が白み始めました。この時ほど太陽のありがたさを感じたことはありません。明るくなるとすぐに出発しました。無我夢中でした。その時の記憶がほとんどありません。目星をつけていた避難所で母の姿を見つけた時は、安堵し、全身の力が抜けました。そして、『(生家に)戻りたい』という母の願いをくんで二人一緒での山越えを決意します。

母の足に不安がありましたが、藪をかき分け、けもの道をたどりながら、互いを励まし合って進みました。枝に衣服を引き裂かれ、足を取られながらも、『帰らねば』という思いだけに突き動かされ、ようやく懐かしき生家にたどり着いたのです。

 あの時の母のパワーはどこから来たのか今でも分かりません。強い人です。

 

 それにしても、100年の人生の中で命に係わるような節目に、必ず力を貸して助けて下さる方がいるのは不思議です。母自身、困ってる人がいれば誠心誠意尽くしてきた人です。これが人徳というものなのでしょうか。ここまで導いてくださったたくさんの方に心から感謝申し上げます。

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 現在の母の様子です。2年前に、室内で転んだことがきっかけで車椅子を使用することになったものの、痛いところは皆無で、よく眠れるし、服用している薬は一切ありません。そこに皆さんはビックリされます。逆に薬を飲まないから元気なのだと思います。そして、食欲旺盛なところにも皆さんはずいぶん驚かれます(笑)」

2025年10月7日のお嬢様のお話より

N.M.I.
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