皆様の声・体験談

谷川百合さん(北海道在住 仮名)の場合

 当研究所には、毎日色々なご相談のお電話があります。下記は創業者であり、前所長の矢萩禮美子が直接対応させていただいた記録になります。

 私のもとに涙ながらの電話が届いたのは、1994年5月17日でした。72歳の母が子宮頸がんで余命1年と診断されたと言うのです。医師からは「一応化学療法はやりますが、希望があれば何でもお使いになってよろしいです」と、最後ともとれる言葉もあったそうです。そして、日本冬虫夏草をお茶代わりに飲むことになりました。

 子宮頸がんが確実にがん化するまでには、パピローマというウイルスの感染が関係し、さらに外陰がん、陰茎がん、さらには肝間周囲がんにも関係があるともいわれています。ウイルスは細胞の中に入り込み正しい遺伝子情報を間違ったものに変えたりします。しかし細胞の方でもこの間違いをそのまま伝えないように、がん抑制遺伝子「P53」をつくり出し、正しい情報に直そうとするそうです。

 入院し、しばらく化学療法の苦痛に耐えていた谷川さんの母親は、9月に入ってから食欲がなくなってしまいました。放射線はこれまで32回も照射していました。このまま続けて余命を延ばせるものなのか医師に相談すると、「約束できない難問だ」と言われました。72歳の母親は、「抗がん剤はやめたいよ、退院したいよ」と言いました。娘の百合さんは、このまま体力を落とすことは、自然治癒力もなくしてしまうのではないかと、お母様の決断に賛成したそうです。

 谷川さんは、抗がん剤をお断りし、「いつかは死ぬ のだから痛くなく、気持ち悪くなく快適に過ごそう」と退院しました。74歳という年齢に不足はあっても、孫娘にも恵まれて思い残すことはない。いつお迎えが来てもよいと覚悟をきめたそうです。

 病院からはとっくにさじを投げられた谷川さんでしたが、初診から7か月後の1995年1月の診断では、医師が不思議がるほどに回復していました。それから厳寒の北海道で風邪もひかずに3年を過ごしたのです。  谷川さんは、体をいたわりながら3年間自宅で無事に過ごしてから、その後の1年近くは自信も出てきて、少々気を許したかもしれません。日本冬虫夏草も飲むのを忘れていました。そして4年目にまた発がんしたのです。1994年に谷川さんの娘さんから涙の電話を受けた時のように、再び悲痛な声が届きました。1年もの間、私もうっかりしていた事を口惜しく、反省しました。肺と首のところに発がんして再び入院し、放射線をあて、首は治り退院しました。日本冬虫夏草も再開しました。その後は抗がん剤を服用するようになりました。そして歩けなくなっていったのです。骨まで広がっていました。そこで日本冬虫夏草の別の種類を使用することになったのは1998年10月末のことでした。

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 一時は寝たきりになった谷川さんでしたが、それから6か月後には杖をついて歩けるまでになったと連絡が入りました。私は本当にそうなのかこの目で確かめたいと思い、半信半疑のまま北海道の谷川さんのお宅に訪ねたのは1999年初夏、6月3日のことでした。日本冬虫夏草を再開してから半年後のことです。青く美しい海に面した街は桜とチューリップとスイセンが同時に咲いていました。

 谷川さんは、杖をつくことなく玄関の階段を昇降して、優しい笑顔で私を出迎えてくれました。ずっと以前から知り合いのような懐かしい感じがしました。ご立派な体格の優しいご主人が台所をやってくれているようで、高齢夫婦の静かな家庭がそこにはありました。

 わたしは発がんのキッカケを探そうと考え、色々とお話を伺いました。その話の中で、血圧の薬を20年間服用し続けてきたことを初めて知りました。疸石が痛むのでその薬も長く服用してましたが、いつの間にか止めたと言います。そして現在は何の薬も服用していないとのことでした。

朝日ウィル(北燈社)1999年より

【経 緯】

1994年 5月17日 子宮頸がんで余命1年と告知される。
日本冬虫夏草を飲み始める。
9月 入院して放射線、抗がん剤やるも食欲がなくなり、本人の意志で退院。
1995年 1月 医師が不思議がる程に回復。
1997年 5月 日本冬虫夏草休止。
1998年 5月11日 肺と首に発がん。放射線治療で首は治る。抗がん剤の服用開始。
日本冬虫夏草再開。
7月28日 歩けなくなる。骨に転移。抗がん剤の服用続ける。
10月10日 日本冬虫夏草の別の種類を追加して使用。
1999年 4月6日 元気になり杖をつけば歩けるようになる。
5月20日 台所仕事ができるまでになる。
肺の腫瘍はそのままで大きくなっていない。
6月3日 杖なしで階段の昇降ができるようになる。
実際にお会いして、この目で確かめる。
N.M.I.
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