皆様の声・体験談

山川さゆりさん(仮名)の場合

 「私が左の乳房のしこりに気付き、宇都宮の病院で検査を受けたのは1995年10月のことでした。結果 が出るのは1週間後。不安でしかたなく、すぐに母親のところに走りました。というのも、以前母が人間ドックで肺に異常が見つかった時、日本冬虫夏草を取り寄せ飲んでいたのを思い出したからです。早速譲ってもらって飲み始めました。(母はその後異常なしとの診断をもらっています。影は幼少の頃からあったものだそうです)

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 矢萩さんにも電話をしました。すると『山川さん、ちょっと仕事を休んで、好きな時に寝て、好きな時に食べて、好きな時にお風呂に入って自由にのんびりやればいいんですよ』とおっしゃる。その頃の私は、がんというものの本質が分かってなくて『いったいこの人は何を言ってんだろう?』と理解に苦しんだのを覚えています(笑)

 1週間後、結果を聞きに行くと『乳がん。2cmと4cmくらいの腫瘍』と診断されました。そこで乳房を全摘してリンパも取る手術を勧められたのです。手術は3週間後と決まりました。女性なら誰でも願うように乳房は失いたくないと思いました。手術まで時間があるので、がんに関わるものであれば、本でも雑誌でも何でも読みあさりました。がんというものはどうしてできるのか、どうすれば消えるのか、病院の治療は、治った人はどういう道を辿っていったか、経験者からも遠慮なく話を聞きました。

 日本冬虫夏草は毎日350cc、チビリチビリと飲み続けました。それは私のお守りのような存在でした。間もなくして、長い間悩んでいた便秘が解消されていることに気付きました。また、私は昔から手首に脂肪の固まりのコブを持っていて、久しぶりに会った伯母が『どうしたの?コブが小さくなってるよ』と言うのです。食事療法も始めました。主食は玄米、野菜をよく摂って、乳製品と白砂糖の入った甘いものは食べないようにしました。それから血行をよくしなければと、スタイルを意識して身に付けてたボディスーツを脱ぎ捨てました。

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 休暇届を出して自宅療養と決め込みましたが、夜はなかなか寝付かれず、眠りに就くのが12時過ぎ、朝は5時には目が覚めてしまいます。でも、主人と息子たちに朝食の用意をして、送り出して、日本冬虫夏草を飲むとようやくリラックスして眠くなってきます。そこから朝風呂に入って、テレビを見ながらご飯をゆっくりいただきます。そして日本冬虫夏草を胸にシップして9時から昼まで朝寝をするのです。誰にもわずらわされずにこのようにリラックスしてひとりの時間を持てるとは、今までの生活からは考えられないことでした。

 その頃の私は、4月に転勤となってから、新しい職場での上司や同僚との確執に、家庭での夫やその親戚 との確執が加わり、毎日イライラして仲の良い友人ともうまくいかなくなっていました。まさに八方ふさがりの中、心休まる場所はどこにもなく、そのストレスが免疫力を低下させて発病の引き金になったのでしょう。突然手に入った日中のひとりの時間は、かけがえのないものに思えました。

 日本冬虫夏草を飲み始めてから2週間目、胸のしこりを自分でチェックしてみると、二つあった腫瘍のうち2cmのものはどこにもなく、4cmのものもよく探さないと分からないほど小さくなっていました。

 いよいよ手術前日という時、診察室で私は主治医に頼みました。わずかに残った患部だけを摘出して乳房は温存してもらえないかと。でも『予定通 りやります。乳房やリンパは今後転移する可能性が高いので事前にとってしまった方が安全ですから』と取り合ってくれませんでした。転移どころか実際に患部の一つは消えて、もう一つは小さくなっているのに、これから転移すると言われてもピンときません。父と主人は『胸の一つや二つより命の方が大事』と説得にかかります。私を心配する気持ちはとてもよく分かりました。

 虚しい気持ちで病室に戻ると、私に面会したい人がロビーで待っていると連絡が入りました。その人は、この病気がきっかけで友達になった同じ病気をもつ女性でした。下に降りていくとご主人と一緒にたたずんでいました。それは私が真夜中に病院を脱走する12時間前の出来事でした」(2003年4月15日号に続く)

朝日ウィル(北燈社)2003年3月18日号より

 「彼女は手術の跡を見せてくれました。明日、私が同様の手術をすることを知って駆けつけてくれたのです。『転移や再発がないようにと、乳房もリンパも取り、ホルモン注射を続け、検査のために何度もレントゲンを当て、その結果 がこの度の再発です』私のようになってはいけないよ。彼女の思いが伝わってきました。

 心は揺れました。夜が明ければ手術です。眠れるはずもなく、病室の薄明りの中でパラパラと週刊誌をめくっていました。すると乳房温存療法に取り組んでいる病院の記事が目に飛び込んできたのです。自分の望む治療をやってくれる病院はある。もうここにはいられない。ようやく決心がつきました。そのまま病院を抜け出しました。

 1995年11月4日、午前2時のことでした。そして4時間後には東京行きの電車に乗っていました。週刊誌に載っていた病院に向かうためです。私は、車中であろうとプラットホームであろうと、日本冬虫夏草のビンを抱えて始終チビチビ飲んでいました。周囲からどう見られようと、そんなの関係ないの。今思えば、近寄るのをためらうようなちょっと異様な姿だったと思いますよ(笑)

 病院は大塚にありました。受け付けを済ませて主人に電話を入れると、私宛てにFAXが入っていると言うんです。それは温存療法に取り組んでいる病院のリストでした。送り主は、いつも私のことを心配し、励ましてくれている人です。私がそういった病院を探しているのを知って、見つけてくれたのでした。すぐに電話を入れ、大塚の病院に来ていることを告げると『そこはダメ、温存療法をやらないどころか抗がん剤も一所懸命使うところ。すぐに出てK病院に行きなさい』診察室から呼ばれる寸前でした。保険証を奪い取るようにして病院を出、電車に飛び乗りました。2度目の危機一髪でした。

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 3番目に辿り着いた病院は、土曜の午後ということもあって診察はもう終わりでした。予約を入れて1週間後に改めて診てもらうことになりました。地下に売店があったので、担当してくれる先生の書かれた本を購入して帰りました。電車の中で本を開くと、私の中で釈然としなかった数々の疑問が、明確に解かれていました。私の考えは間違っていない、そう思ったら急に涙があふれてきました。長い長い1日でした。黄昏の車中で、何度も涙を拭きました。とうとう念願の温存療法をしてくれる病院に行き着いたのです。   

 ここに至るまで、良いという療法があれば何でも試しました。音楽で病気が癒されると聞いて錦糸町にも行きました。食事療法やカイロプラクティックも試しました。習志野にある香澄診療所へも伺いました。日本冬虫夏草を治療の中に取り入れていると聞いたからです。

 何回かの治療の中で廣瀬薫先生は、私に、本人から許可を得た1枚のカルテを差し出しました。乳がんの末期患者で、がんセンターに見放されたという女性のものでした。ところが日本冬虫夏草を飲み続け、元気だというのです。死と向かい合っていた私に、光が差し込みました。明るい幕張の海岸沿いの風景を眺めながら、心の迷いが消えて、自分らしく歩き出せることの幸せをかみしめていました。

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 1995年12月7日。希望通り、患部だけを取る手術を行いました。乳房は残りました。形もほとんど変わりません。その病院には、乳房を残したいという一心で、探し当ててやってきた女性ばかり9人が入院していました。その後、その方たちとの会話の中から、いろいろなことを学んでいくことになるのです」

朝日ウィル(北燈社)2003年4月15日号より

 左の乳房に2cmと4cmの腫瘍がありましたが、手術の前には2cmのものはすでに消失して、4cmのものはよく探さないと分からないまでに小さくなっていました。さらにその患部はやわらかく変化していました。

 「手術は3時間を要したものの痛みもなく、次の日には外出できるほどの簡単なものでした。何とか乳房はそのまま残すことができました。実は摘出した患部は見てないんですよ。うっかりしました。頼んで見せてもらえばよかったですね。ひょっとしたらがんではなくなっていたかもしれません。

 その病院には、乳房を残したいという一心で、全国から集まってきた女性ばかり9人が入院していました。彼女たちは食事療法はやっていて当たり前、教養があってパワフルで、病気や治療についてかなり勉強されてるという印象でした。ぼんやりしてる人は誰ひとりいなかった。治すことに決して受け身じゃないんです。『うゎ~、先生にそこまで要求しちゃうわけ?』と驚くこともありました。私は相変わらず日本冬虫夏草のビンを抱えてチビチビやってましたから『冬虫夏草の山川さん』と皆に呼ばれていました(笑)

 できるだけ自然療法でと思っていた私も、術後の25回の放射線照射は避けられませんでした。それでも抗ガン剤投与は、1回やったところで断りました。そのためには少々知恵を絞らなくてはなりませんでした。同じ病院でも、先生によって考え方が少しずつ違うということが判ったからです。私を担当してくださった先生は、実際には本の著者とは違う先生で、抗がん剤をよく使われていました。完全に西洋医学寄りで、病室で自然療法や食事療法などの本を見つけた時なんかは、一言皮肉を言って帰られましたから。直接断っても無理と判断し、東洋医学や食事療法の理解ある助手の先生に相談したんです。そしたらスンナリ抗がん剤は中止となりました。

 入院中に皆と明らかに違うと感じたのは、生理が普通にやってきた時です。他の人は皆止まりましたからね。10人中9人が止まったのです。また抗がん剤を投与した回数に関わらず、抗がん剤の最後の投与が終わった時点から3週間目になって、皆さん髪が抜け始めるのでした。『お風呂の排水溝に髪の毛が詰まるわよ』と言われて、髪を洗わないでおこうと思いました。でもさすがに我慢できなくなって洗うと、これが抜けてこなかったんですよ。髪が抜けた人たちは揃って真っ白い顔をしていました。それでも皆で言いたい放題おしゃべりして笑っていたからでしょうか。比較的元気でした。

 がん仲間であり、現在も交友を続けているSさんが、乳がんの女性の共通 点を分析していました。明るい人も、太っている人も痩せている人も胸の大きい人も小さい人も関係なくがんになっている。共通点はなかなか見つからない。そんな中でようやく掴んだのは、皆さんが発病する前に『眠れない日が続いた』ということでした。心の平穏をしばらく失っていた時期があるのです。

 外泊も含めて入院生活は2か月に及びましたが、歳いった人から若い人まで全国津々浦々からやってきた女性たちとの出会いがあり、どの方のお話も大変興味深く、毎日ワクワクして過ごしました。素晴らしい女性たちばかりでした。あの時ほど面 白かったことは生涯ないかもしれません。病院に運んでくれた東武電車を見かける度、今でも懐かしさと楽しさが込み上げてきます。治療を探し求めて歩く旅もとても幸福な時間でした。私にとってはバケーションそのものだったのです。

 あれから再発もなく元気で、今年で8年目を迎えました。仕事に忙しい毎日ですが、追い詰められた状況にしないこと、食べ物に気を付けること、そして何よりもクヨクヨしないようにと心がけています。

 病気になったことで得たものは多く、がんは克服できること、治す力は誰にでもあって、引き出せるかどうかは自分次第、諦めてはいけないこと、そして何事にも感謝する心を持つことを学びました。病気で悩んでいる人がいれば、できるだけ力になりたい。

 私は今、職場の管理職試験を受けようと頑張っています。また書道の師範の資格も取ろうと思っています。健康に不安があっても日本冬虫夏草があるという安心感は、私の何よりのお守りだと思っています。もしかしたらその安心感が私を健康にさせてくれるのかもしれませんね」

朝日ウィル(北燈社)2003年5月20日号より

【経 緯】

1995年 10月13日 片方の乳房のしこりに気付き、検査に行く。
日本冬虫夏草を飲み始める。
10月19日 検査結果が出て乳がんと告げられる。2cmと4cmの腫瘍。
10月26日 2cmの腫瘍はどこにもなく、4cmのものはよく探さないとわからない程小さくなる
11月3日 入院先で、主治医に乳房温存療法を願い出るも聞いてもらえず。
11月4日 手術日。未明に病院から抜け出す。K病院に行く。
12月7日 患部だけの摘出手術。乳房は残る。
その後25回の放射線照射。
抗がん剤投与1回終わった時点で中断。

 昨年9月に父が脳梗塞で倒れ、介護の一年を送っていました。医師からは何度も危篤状態を告げられましたが、その度に父は復活し、その生命力には驚かれます。それでも先月は、肺炎に加えて腸からの下血があり、『再び出血したら命はないでしょう』と言われ、親族を呼び寄せる事態となりました。腸が壊死しているということでした。でも不思議なことに父に面会した皆は『顔色いいよね』と口々に言うのです。それを主治医に話すと『体の外と内は違いますからね』と言い返されました。

 それでもあきらめきれなくて、知り合いの気功の先生を頻繁に病室に呼んで気をあててもらったり、飲ませていた日本冬虫夏草を今度は浣腸してみることにしました。市販のイチジク浣腸の中身を捨てて代わりに日本冬虫夏草を入れて。一番多い時(危篤時)で1日4回、2本ずつ浣腸しました。『お父さん、これで良くなるからね』と常に声をかけながら...。床ずれした部分にはオトギリソウをつけてあげました。39度まで熱が上昇した時も、めげずに自分でやれることを続けました。すると次第に、酸素マスクが外され、鼻にあてる簡単なものになり、それも外され、水枕も取れて楽になっていったのです。肺炎も治り、床ずれも治っていきました。

 そしてこの度のCT検査。腸の画像を見て、主治医は大変驚いていました。『壊死した部分が治っている』と言うのです。そのことを気功の先生に話すと、『人間の体には信じられない程の治す力があって、まだ科学では解明されていないことが多いのです。つまりまだ見えていないものの中にこそ真実があるのです。その力を抑えるのではなく、引き出せる環境であるといいですね』と励ましてくださいました。

 「私は手術から再発なく12年が過ぎました。ここを元気で乗り越えて行かなくてはなりません。日本冬虫夏草は父と一緒に飲んでいます」

2007年10月11日のお電話より

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 「がんばっていた父でしたが、とうとう旅立つ日がやってきました。2008年4月19日のことです。最愛の父との別れにひどく取り乱す自分を想像したこともありましたが、悲しみは全くなく、不思議なほど静かに受け止めることができました。1年前の自分だったらこうはいきませんでした。

 そういう心の境地に導いてくれたのは父の力です。ここまで到達するのを力を振りしぼって待ってくれたのだと思います。私も仕事と介護の両方に力を振りしぼって振りしぼってもう何もでないところまできていました。二人で精一杯やった先に辿り着くこのように静かで穏やかな場所があるとは考えもしないことでした。

 私は何の宗教も信じていませんが、これまでの人生を振り返ると出会いや出来事ががすべて組み込まれているのではないかと思えて仕方がないのです。すべてが完璧なタイミングで現れて、その意味を後になって知るというような繰り返し。苦難も苦労も有難く思えてきます。

 最期に父と交わした言葉は『ご苦労さん、ありがとう』でした」

2008年5月25日のお電話より

N.M.I.
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