CASE9 : 克服をしてからも気を抜かないで付き合う

高橋光威さん(神奈川県在住)の場合

 「日本の若い人気俳優が膀胱がんに倒れたとき、そのニュースがマスコミで盛んに取り上げられましてね。お気の毒なことと思いまし

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た。私がブドウ酒色の血尿が出たのもこの頃です。息子たちは連日のマスコミ報道を見ていて心配になったんでしょうね。検査を熱心にすすめるんです。それならばと病院に行き、内視鏡で調べていきました。すると、カリフラワーの形をした大豆大の腫瘍が1つ見つかったのです。膀胱がんということでした。

 自覚症状は血尿が出るまでは何もなかったんですよね。治療は患部をレーザーで焼く手術だけで、抗ガン剤や放射線といった治療は一切ありませんでした。1990年(48歳)のことです。それからというもの、定期的に検査を行うようになりました。

 仕事をしながら3年半が過ぎた頃です。再び腫瘍が現れました。最初の再発です。前回と同じようにレーザー処置だけ行うと、主治医から『これから再発までの間隔は短くなるけど、長くはならないよ』と言われたんです。案の定、2度目の再発は1年10ヶ月後にやってきました。腫瘍は3個。レーザーで処置しましたが、今度は術後2ヶ月経ってもウーロン茶色したおしっこがきれいにならないんです。

 心配した義兄が、日本冬虫夏草研究の第一人者である近藤嘉和先生に日本冬虫夏草の話を聞きに行ってくれました。義兄は東北大学の理工学部にいて、近藤先生も大学で研究しておいででした。そのような縁で日本冬虫夏草を飲むに至ったのです。

 飲み始めて2週間目、どういうわけかおしっこの色が透明に澄んできました。そしてこれまで検査の度にモニターに手術傷が消えずに写 っていたものですが、飲み始めて6ヶ月もすると5個あった手術痕は無くなり、全く写 らなくなっていったのです。

 さらに変化は続きました。実は日本冬虫夏草を飲む以前は、血圧は上が170以上、下が125以上常にあったんです。そのせいで頭痛もあり、医師から『今死んでもおかしくないよ』と言われてました。私は東北の生まれで、30歳ぐらいまでは塩辛いものを好んで食べてましてね。父は脳いっ血で亡くしています。その血圧が上135、下85まで下がっていたのです。体重も74kgから62kgまで減っていきました。

 でも体重がこれ程まで減ってしまうと、他の臓器に転移してるのではないかと急に心配になるものです。東京の慈恵医大の先生に診てもらいました。すると『あんたが病気だったら、国民1億2千万人皆が病気だよっ!』と言われてしまいました。

 代謝異常ががんの原因のひとつといわれてますが、食欲が増して以前よりよく食べるのに、新陳代謝が活発で体重が減っていくというのであれば、がん体質から遠ざかっていることになります。新陳代謝の良かった、こんな病気とは無縁であった20代の頃の体型に戻り、洋服がどれもぶかぶかになってしまいました。50代になったのに、外見で30代後半に間違われることもありました。

 私の仕事は、親御さんから大切な息子さんたちを預かる会社の独身寮の責任者で、身の上相談までも引き受ける、いわゆる25人の息子の東京のおやじをやっていました。息子が25人もいるというのは大変ですよ。寮の中ではけんかはあるし、裁判所の人はやってくるし、パトカーもやって来るし、警報装置はなるわ...でいつでも飛び出せるようにとパジャマで寝たためしがありませんでした。1本の髪の毛がはらりと顔に落ちただけでも目が覚める程、ある種の緊張を保ってなければならなかったのです。あと1ヶ月したらこの仕事はやめよう、子供が高校を卒業したらやめようなどという思いを繰り返しているうち、25年の歳月が流れてました。

 そして周囲に惜しまれながら、ようやく退職にこぎつけました。精一杯やってきたので未練はありませんね。現在、とてもリラックスして過ごしています。検査ではどこの内臓も正常で、モニターに映る膀胱内壁は相変わらずなめらかできれいです。最後の再発から2年3ヶ月が過ぎ、再発しない記録を更新中。そしてついに主治医から、しばらく検査に来なくても良いと言われてしまいました」

朝日ウィル(北燈社)1998年1月新春合併号より

 

4年6か月で再発

 2001年3月、高橋光威さん(神奈川県・59歳)は、膀胱がんの最後の手術から再発もなく、元気に4年6か月を迎えていました。主治医から『5年再発しなかったらもう大丈夫』と言われてあと一歩というところ、検査でマッチ棒の頭よりひとまわり小さい腫瘍が見つかったのです。

000053-b.jpg 「日本冬虫夏草を最近飲むのを2年ぐらい休んだでしょうか、今年の3月に再発したのです。再発しない4年半は夢のようでした。先月から日本冬虫夏草を再開。再び5年再発なしに挑戦です。この度の再発は、おかしいなと思える自覚症状が全くなく、心身ともに充実していて、術後も病院内を持ち前の芸で沸かせて『夕日のガンマン・タカハシ、病気でないのにどうしてここにいる?』と皆に不思議がられました」

 がんのステージに関わらず、がんになっても治りの早い人とそうでない人との分かれ目には生活スタイルが深く関わっているような気がします。高橋さんは自分の食生活のことをキリギリスのようだと表現しています。野菜中心で、魚は食べますが動物性の肉類はまず食べません。年に1度、奥さんが作ったハンバーグを猫のこぶしぐらい食べるか食べないかで、牛乳などの乳製品やインスタント食品などの加工食品も摂らないし、白砂糖の入った甘いものも一切食べません。

 高橋さんは、健康のために意識して食べているのではないと言います。体の内なる声を聞いていたら自然とそうなったと言うのです。肉や甘いものは食べたくないから食べないのであって、30歳を過ぎた頃から塩分も自然に控えるようになりました。若さが保たれて外見上は40代に間違われることもあるそうです。

 「がんなんかでヒトは簡単に死にはしません。私と同じ手術を20回繰り返した人はもうお亡くなりになりましたが、死因はガンではなく、天寿を全うした老衰でした。それでも主治医はこの病気のことを『これは怖い病気でないから怖いんだ』と言います。なめてかかるなということでしょう。

 現在は再就職して老人ホームの調理師の仕事をしています。早番の時は朝5時半に家を出て、休憩なしで8時間働きます。体もよく動くし、疲れるということがありません。でも私の最大の武器は、落ち込んでも5分でケロッとする性格でしょうかね」と陽気に話してくださいました。

朝日ウィル(北燈社)2001年9月1日号より

 


 「3月の検査では、どこにも異常は見つからず、元気にしています」とお電話をいただきました。

2002年5月のお話より

 


「テレビは主人も私も拝見させていただき、素晴らしい研究の場面 を知ることができました。主人は毎日元気にしております」

2002年12月10日お便りより

 



「桜の花が満開で、もっとも美しい季節となりました。日本冬虫夏草を続け、主人は元気で暮らしています。 3度目の再発から何事もなく2年が経ちました」

2003年4月5日お便りより

 

「主人はパートの仕事を辞め、家におります。食欲が少し落ちたこともありましたが、この頃は食欲も出てきております。いずれにしても日本冬虫夏草のお陰で病気の方は心配ないのがうれしいです」

2004年3月11日お便りより

 

000053-c.jpg 「日本冬虫夏草を再開してから4年が経ちました。そして、再発なく元気に4年5ヶ月を迎えました。5年まであと少しです」 奥様から手作りの押し花の暑中見舞いカードが届きました。

2005年7月31日

 

 

 

目標の5年を超えた

 「再発なく元気に目標の5年がとうとう過ぎました。64歳になって、いろいろな場所でシルバー料金のサービスを受けられるようになりましたが、白髪もないし、40代ぐらいに見られるものですから、しょっちゅう疑われてます(笑)。身分証明書を出して納得してもらわなくてはなりません。

 だいたいがプラス思考で、心配しても仕方がないという性格ゆえかもしれませんね。これは母親譲りです。母から戦後のひどい混乱の中、中国から引き揚げた時の話を聞きました。子供の中で末っ子の私を養子に欲しいと中国人から懇願されたといいます。それでも母は、何とかなるさというような性格だから、私を抱いて帰国したということです。母の性格がマイナス思考だったら、私は残留孤児になっていたかもしれません。亡くなった両親や先祖には、毎晩感謝し、手を合わせてから就寝します。元気で生かされていることに感謝しています。日本冬虫夏草は今後も続けていくつもりです」

2006年6月6日のお話より

 

 「73kgあった体重が、日本冬虫夏草との出会いを経て65歳になった現在は51kg台で安定しています。体の切れはいいですよ。炊事、洗濯、お風呂掃除、何でもやります。じっとしてると、人生サボってる気がするんです。そして『奥さんは床の間に飾ってる』と答えることにしています(笑)。

 最近になってようやく、『寮の管理人の仕事はきつかった』と、あの頃のことを妻に話せるようになりました。北海道から九州までそれぞれ全く違う教育を親御さんから受けてきた人間の集合体ですからね。それぞれのタイプに合わせて接しなければなりません。それでも社会人として外れた行為をした時は容赦はしません。もう鬼になって怒ります。心底その子のおやじになってね。毎日が真剣勝負の繰り返しでした。

 寮を卒業してからおやじとして慕ってくれることはうれしいことです。もうひとりの東京に住むおやじとして、しょっちゅう結婚式に接待されるものだから、管理人仲間から『そんな人はめずらしい』とうらやましがられました。

 当時を懐かしく、静かな気持ちで振り返ることができるのも、再発の心配をせず、健康で穏やかな暮らしがあればこそで、感謝しています。最近は近所の幼い子供たちに、ドラえもんのモノマネやイナバウアー等あれこれ披露して、いかにウケるかを励みにして暮らしています(笑)」

2007年2月9日のお話より

 

000053-d.jpg 「5月27日は江ノ島海岸にボランティアでゴミ拾いに行きました。今年は五百世帯の住宅の生活環境部長になり毎日忙しくしております。主人もおかげ様で毎日元気に暮らしております」奥様から手作りの押し花のおはがきが届きました。     

2007年6月5日

 「もう7年出てないんですよ。先生から『膀胱がんは取っても取っても現れて、その間隔がだんだん狭くなっていくものなのに、再発がなくてこんなに元気で、あんた1億円の宝くじ当てたのと同じだよ』と言われました。

夜8時に就寝、4時には起きてウォーキングをしています。台風と大雪以外は毎日です。歩かないとヒザの調子も悪いように思います。出会うのは猫と新聞配達の人、キジ、ヘビ、食用蛙たち。この辺は神奈川県でも特に緑の多いところ。小動物に話しかけながら、澄んだ空気と雑音のない静かな街をひとりじめする贅沢を満喫しています」

2008年7月1日のお話より

 

再発無く、ついに10年を超えた

  「再発無く、無事に10年が過ぎました。8月で70才になりました。夫婦共々暑さに負けず元気で暮らしております。泣いて暮らすも一生、笑って暮らすも一生、だから二人で笑う方を選びました。3月の震災では、人生でこんなことが起きるのかという事が現実になってしまいました。被災地の方々の事を考えると頭が下がります。この度の事で人間の力強さ、人間の素晴らしさを学んだ気がします。命の日本冬虫夏草、これからも続けていきます」

                                                                   2011年9月2日のお話より

  「2013年は、血糖値が上昇して1ヶ月間程入院しました。当初、1日4回、インシュリンを打っていましたが、今は1日1回となり、9割9分元に戻ってきています。甘いものは食べませんが、お酒の飲み過ぎでした。ウィスキー、日本酒、ビール、焼酎、オールマイティで何でもござれ。侮っていました。役者やったり、調理師やってたり、お酒の飲む環境に長年身を置いてましたからね。反省しています。
 

入院中に泌尿器科の看護師さんに『がんで4回程入院したよ』と言うと、『本当にがんだったんですか!』とビックリされました。最後の再発から12年以上もがんは出ていません。前にもお話しましたが、医師からは再び『一億円拾ったと思いなさい』 と言われるくらい珍しいことのようです。治療には笑いが最高の薬と思っていますので、病院内をジョークで湧かせて人気者でした(笑)。看護師さんからも『退院しないでください』と惜しまれた程です(笑)。

 現在は1日40分のウォーキングを続けています。出会った人達、動物達に挨拶して、さんざん笑顔を振り撒いております(笑い)。日本冬虫夏草も続けています」

                                                                                            2013年12月2日のお話より

 「主人は再発が止まってから13年。がんとは無縁で暮らしています」

2014年6月24日の奥様のお話より

  「再発が止まってから15年以上経ちました。がんとは無縁で暮らしています。出来るだけ外に出て笑顔を振りまいております(笑い)」

 2016年12月12日のお話より

 

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 「お世話になっております。おかげ様で二人とも元気に暮らしております」奥様より絵手紙年賀状が届きました。

2017年1月1日

尾原正芳さんの場合

 「C型肝炎ウイルスに感染したのは19歳の時でした。肺結核を患いましてね。手術の際に受けた輸血が原因なんです。肺結核の方は完治しまして、10年間は何事もなく過ごしました。

 30歳になって、肝機能の検査データに異常が出始めた時、『A型肝炎ウイルスでもなければ、B型肝炎ウイルスでもないね。それでも確かに何者かが住みついてますね』という非A非B型という診断をされたんです。まだ世の中でC型ウイルスが発見されてなかった頃ですからね。C型ウイルスと確定されたのはそれから15年後の1992年のことです。


000052-a.jpg C型のキャリアーとわかってから長野県に転勤になり、単身赴任を余儀なくされました。茨城の自宅は新築したばかり、子どもたちは受験を控えていて経済的にも一番きつい時期でもありました。

 1996年初夏。とうとう肝臓に2センチ大の腫瘍が発生しました。患部は手術によって切除されましたが、これが1回目の手術となります。以前からインターフェロンの勧めはありました。でもうつ病等、精神的な副作用も出るきつい治療というでしょう。単身赴任の身の上であったし、避けて通ってたんです。

 手術から3ヵ月して、やむにやまれずインターフェロンの投与をスタートさせました。皮膚に薬疹が出て、痒みに悩まされましたが、私の場合はC型ウイルスの中でもインターフェロンが効き易い2b型ということで、3ヵ月でウイルスは陰性になりました。ウイルスがいなくなってもすでに肝細胞のあちこちが傷ついてるということなんでしょうね。手術から1年後に再び肝臓の5ヵ所に腫瘍が現れました。妻の勧めもあって、日本冬虫夏草を飲み始めたのはこの直後のことです。

 2度目の手術は10時間以上を要しました。朝8時に病室を出て戻れたのは夜中の12時。『手術はこれが最後。3度目はできないよ』と言われました。そんな中、不思議なことが一つありました。切除した5ヵ所のうち3ヵ所からガン細胞が全く見つからなかったというのです。大変な手術だったにもかかわらず、傷口の治り具合も前回より早いように思いました。

 このとき、同じように入院して手術をされた方が3名おりました。ところが1~2年の間に全員亡くなられたそうです。それを知ったときはとても残念で、手術だけでは不十分なのかなと思いました。

 その後もミリ単位~数センチ大の腫瘍が1年ごとに発生しますが、その都度、肝動脈塞栓術、エタノール注入、放射線治療で対応し、仕事を続けながらその場を切り抜けてきました。

 ところで、塞栓術では抗ガン剤も使用されますが、約2週間の治療の間、副作用がとても少なく、スケジュール通りの治療ができたことに主治医もビックリしていました。妻は『仕事の代わりはいくらでもいるんだから休んじゃえばいいのよ』と言っていましたね。私は典型的な仕事人間で帰宅するのはいつも10時~11時。結婚当初からそうでした。たまに8時、9時に帰宅したものなら子どもたちから『お父さん、今日は早いけどどうしたの?』と不思議がられる始末です。妻はせめて単身赴任がなかったら発ガンは避けられたのではないかと思ってたようです。 
 

病院の治療を一切やらずに消失

000052-b.jpg 2001年6月。5~6ミリ大の腫瘍がまたしても現れました。そして、『3ヵ月後に再検査して、それから治療しましょう』ということになったのです。その頃私は、単身赴任から解放されて、いいかげんだった食生活を妻の考案した健肝食にガラリと変えていました。無農薬野菜、玄米、自家製のシジミエキス、ゴマ等の種子類、海草類です。肉は1ヵ月に1回食べるかどうかです。また、一人の時と違って、家族と一緒ですと仕事上の責任や対人関係のトラブルからくるストレスもずいぶん軽くなるんですね。飲んでいた日本冬虫夏草の内容を変えたこともありました。

そうしたら3ヵ月してMRIで再検査をすると、『あれっ、この辺にあったのに見当たらないね』と言われて。あったはずの腫瘍がきれいに消えていたのです。この間、病院の治療は一切ありません。それからというもの、再発とは無縁で今日に至っています。私は、タバコとお酒は全くやりませんが、仕事中毒はやめられないようです。それでもストレス解消、日本冬虫夏草、妻の健肝食にささえられて再発しない記録をこれから先ものばしていきたいと思ってます」

朝日ウィル(北燈社)2002年4月16日号より

 

【経緯】

1966年 19歳
肺結核の手術。輸血あり。
肺結核は完治。
1977年 30歳
輸血から肝炎ウィルスに感染したことを知る。
ウィルスの型は非A非B型とされた。
1992年 45歳
C型肝炎ウィルスのキャリアーと確定。
1996年6月 49歳
肝臓に2cmの腫瘍。
9月17日
1回目の手術。切除。
12月20日
インターフェロン投与開始。
1997年3月
C型肝炎ウィルスがなくなり、陰性。
6月20日
インターフェロン投与終了。
9月2日 50歳
肝臓に5つの腫瘍。
「手術は最後、3度目はできないよ」と言われる。
9月6日
日本冬虫夏草を飲み始める。
10月7日
2回目の手術。
切除した5ヶ所のうち3ヶ所からガン細胞見つからず。
1998年〜2000年
その後も1年ごとに腫瘍発生。
肝動脈塞栓術、エタノール注入、放射線治療で対処。
塞栓術では抗ガン剤も使用するが、副作用がとても少なくスケジュール通りの治療ができたことにビックリされる。
2001年6月 53歳
5〜6ミリ大の腫瘍発生。
食事を健肝食に変更。
飲んでいた日本冬虫夏草の内容を変える。
9月
MRI検査で腫瘍消滅。
この腫瘍に限り病院の治療一切なし。

 


 

「腫瘍が消失してから再発なく5年8ヶ月が経過しました。仕事人間の主人も来年3月で定年を迎えます。元気でやっております」

2007年5月30日奥様のお電話より

 

「6年以上再発がなく、定年まで残り1ヶ月となった2008年2月。CT検査で2cmの腫瘍が見つかり、5月にラジオ波での治療を行いました。これはお腹を切る必要がなく、ラジオ波の熱でもって患部を焼く治療です。(エコー画像を見ながら)患部まで針を通す必要がありますが、痛みはなく、1時間で終了しました。

 時代とともにさまざまな治療法を試してきました。外科手術に肝動脈塞栓術(ガンの兵糧攻め)、エタノール注入に放射線照射。肝臓ガンの治療法は進歩を続けていて、ラジオ波は現時点で最先端の方法といえます。

 先生は『焼き残しがあるかな』と何度か言ってましたけど、2008年10月のCT検査ではきれいに消失していました。2009年1月末の検査ではγ-GTPの数値が高い以外は肝機能のデーターは全て正常、腫瘍マーカーも正常です。

 振り返ると再発の直前には必ず大きなストレスがありました。休日も携帯で呼び出されることは珍しくなく、休みなく働きました。2008年3月に定年を迎えてからも同じ職場に通い、仕事を手伝っていますが以前とは全く違います。責任が外れて精神的にずいぶん楽になりました。ようやく肝臓に良い環境となりました。

 先生からは『あなた2回死んでてもおかしくないよ』と言われています。仕事しながらここまでこれたのは、事あるごとに日本冬虫夏草が側にあったからでしょうか。今は不思議なくらい疲れないし、何の自覚症状もなく元気で働いています」

2009年2月1日のお電話より

 


佐藤満さんの場合

※大腸がんについては後半をご覧ください。近況は末尾にございます。  

 「私がノドに異常を感じたのは1992年1月のことでした。町内会の集まりでカラオケをやっていると、突然声が出なくなったのです。これは普通ではないと思い、病院で診てもらうと、やはり声帯に異常があるということでした。

 それからしばらくの間通院が続きました。最終的には喉頭がんの診断が下り、患部を2度ほどレーザー光線で焼く治療を行いました。img114_SP0001.jpgそれでも良くなる気配は一向に見えてきません。そんな折、心配する友人たちが、矢萩先生の研究している日本冬虫夏草の話をしてくれたのです。

 日本冬虫夏草を飲み始めたのは1993年の2月半ばからです。初診から1年以上が経っていました。初め飲むのに抵抗がありましたが、お茶だと思って飲みました。他に薬草茶も作り、それにブレンドして毎日飲みました。山から採ってきたサルノコシカケ、ドクダミ、オトギリソウ、ヨモギを土瓶で煎じて。

 2週間後、主治医からある決断を迫られました。患部の摘出手術の話で、それは声帯まで全部取り、ノドには穴が開いたまま二度と声が出せないというリスクを伴うものでした。

 妻はそれを聞いたとき、『お父さんにとって声を失うことがどんなに不自由なことか、なんとしても声帯を残してあげなくちゃ』と思ったそうです。とはいってもどうしたらいいものか...。理容師の仕事をしている妻はたまりかねて、あるお客さんに私の病気を打ち明けたそうです。

 すると思いがけない答えが返ってきたのです。『私の娘は千葉県柏市の国立がんセンターで看護婦長をしております。その分野の名医がいると聞いてますから娘に相談してみましょう』なんでも娘さんは看護の勉強のために海外留学までされた方で、名医とは、海老原医師です。声帯を少しでも残せる可能性があるならそれにかけてみよう。心が決まりました。

 一方で、主治医にこのことを話したら、かなりもめるのではないか、妻がけんかする覚悟で面談に出掛けたのは1週間後のことです。すると結果はあっけないものでした。『海老原先生は、私たちなど及ぶ相手ではなく、日本で1、2位の腕を持つ方です。どのような方法で知りましたか?誰の紹介ですか?』と逆に尋ねられて、あっさり紹介状を書いてくださいました。『治療後、帰られたら一度私に診察させてください』とまで言ってくれました。

 柏市国立がんセンターに向かったのは1993年4月1日。前日には県の退職者辞令交付式典があり、夫婦で出席しました。定年のこの日まで勤め上げた満足感でいっぱいになり、幸せな一日でした。そこで矢萩先生夫妻にもお目にかかり、記念撮影などもご一緒して、誠に不思議な縁を感じました。


000077-b.jpg 上野駅でそれまで止められなかったタバコを捨てました。病院に到着し、その建造物を目の前にしたとき、はたして生きて帰れるものやらと心細さが募りました。それでも婦長たちスタッフが玄関先まで出迎えてくださっていて、その笑顔にすくわれる思いがしました。

 執刀してくださるのは海老原医師。俳優の中村錦之助さんや勝新太郎さんの手術も手がけられています。私の病状を11名が診て、一人一人が所見を述べ、それをもとに大先生が最終決断をするという方針でした。そして『できるだけ声帯は残して欲しい』という妻の切実な申し出に『分かりました。半分残しましょう』と約束してくれたのです。

 主治医は浅井医師が担当となりました。今まで服用していた薬は全部取り上げられましたが、日本冬虫夏草だけはこっそり飲み続けました。

 4月16日に手術。大成功ということで1ヵ月余りで退院。声を失うことは一度もありませんでした。ただノドには穴が開いており、これは再発を確認する窓穴といったところで、数ヵ月このままで過ごさなければなりません。

【佐藤 満さんの経緯】

1992年1月 カラオケ中に声が出なくなる。通院開始。喉頭がんの診断。1年の間に2度のレーザー治療を行う。
1993年2月半ば 日本冬虫夏草を飲み始める。薬草茶も合わせて飲む。
3月 主治医から、患部の摘出手術の話があり、声帯は残せず声も失うとのこと。声帯を一部でも残したい一念で他の病院を探す。
3月31日 定年退職の日。県の退職者辞令交付式典に夫婦で出席。
4月1日 千葉県の国立がんセンターに向かう。
タバコを止める。
4月16日 手術。声帯の半分が残り、声も失わず。

 その頃の私は、無傷のときと違って世間に見せる自分の姿や気持ちが未練がましく思え、人に会うことができませんでした。でも日が経つにつれて、そういった思いは薄れていき、観念のようなものが生まれていったのです。

 8月。術後の経過が順調だったことで穴を閉じる手術が行われました。これまでの治療には、抗がん剤や放射線など手術以外の治療は一切なく、薬も術後に鎮痛剤を使用した以外は何もありません。

 発病は、原因が3つ重なって起こったのだと思います。(1)タバコ、(2)仕事上責任あるポジションでストレスを感じていたこと、(3)環境の悪い職場で長年汚れた空気を吸ってきたことなどです。県立病院の四方に窓のない、わずかに空調だけの職場でクリーニングの仕事を30年間勤めてきました。後に県の病院管理課に掛け合って改善を求め、現在は、たいへん理想的な職場に姿を変えています。

 手術から今年で9年目。再発もなく、めったに風邪をひくこともなく、週に何日かはハイテク会社の運転手の仕事をしています。日本冬虫夏草と薬草茶は続けており、晴れた日はできるだけ野山に出かけ、新鮮な空気を吸うことを心がけています」

朝日ウィル(北燈社)2001年7月17日号より

 

「手術から14年が経とうとしています。術後3年目で『もう心配いらないよ』と医師から太鼓判を押されましたが、念の為5年目までは検査してもらいました。

 ここまで再発なく、元気で過ごしてきました。今年で74歳となります。仕事は辞めましたが、妻と一緒に幼い孫の面倒をみてますから、毎日とても忙しく、体力も使います。その孫も来月から保育園に入園するので、これからはゆっくりする時間も取れると思います。

 当時を振り返ると、病気を一人でかかえこまず、周囲の人たちに打ちあけて相談したのが良かったと思います。経験者もいるし、必ず何らかのヒントやアドバイスをもらえるものです。妻にも感謝しています。彼女のお客さんからの提案で私の運命も変わりました。これは妻が長い間、確かな技術で温かく誠実な接客サービスを心掛けてきてくれたおかげだと思っています。どのように生きてきたかという真価が問われるのは、こういう瞬間なのかもしれません。

 これまでずっと薬草茶と日本冬虫夏草が傍らにありました。最近は健康に自信がついてきたものですから、あまり飲まなくなりました。妻からは『お父さん、飲んでくださいよ』と言われています」

2007年3月2日のお電話より


                 大腸がん                    

 「2007年12月29日に下血があり、明けて2008年1月22日に大学病院で大腸がんと診断されました。翌日から日本冬虫夏草を再開し、1日400ccを飲み、主食は無農薬無肥料のキヨニシキ玄米、お酒と肉は止め、日本冬虫夏草の浣腸も試してみました。生活を変えてから1週間もすると便がきれいになっていったので良い方向に変化しているなと感じました。

 手術は2月13日のことです。大腸を20cm切りました。摘出部分は黒ずんでいたということです。リンパ腺に転移しているかどうか、この時点ではまだ分かりません。術後、私の回復力のすごさに担当の先生も看護師さんも目を丸くしてたまげていました。『もう少し置いてください』と申し出ると『何ともない人は帰ってください』と言われ、2月24日に退院しました。GA050_L.jpg

 その後も自己管理を続けました。キヨニシキ玄米にはすっかりはまってしまい、おいしくておかずがいらない程です。一時期5kg減った体重もみるみる戻っていきました。

4月15日にようやくリンパ腺への転移なしとの検査結果が返ってきました。抗がん剤投与の話は入院当初からずっと持ち上がっていましたが、5月13日になると『75歳になるし、抗がん剤は止めておきましょう』と言われ、15年前の喉頭がんのときと同様、手術のみの治療で終了しました。

実は、抗がん剤の話が出る度、『やりたくない』と意向を伝えていたのです。それでも『(自宅で服用する)抗がん剤を出しますか?』と再び話が持ち上がった時は、妻に加勢してもらって意志を貫きました。7月22日のCT検査でも、異常なしとの診断が下りました。
 

 振り返ると3人の息子のことで幸せを願うばかりに心を痛めた時期がありました。思うようにならないことにいら立ったりしました。そして毎日、ビールと焼酎と日本酒のちゃんぽんで晩酌を欠かすことはありませんでした。先生にお酒のことを尋ねたことがあります。『お酒は飲んでも構わないよ』と言いますが、大腸がんになったことをきっかけにスッパリ止めました。がんを経験した人は、止めるに越したことはないと思います。止めるに勝る薬なしです。
 2度のがんを経験して神経が大分図太くなったように思います。この先何があろうとドンと来いといったような。それでも何もないようにと食事療法を中心として、体の改革に努力し続けておりますので、どうぞご安心ください」

2008年8月18日のお話より

2007年12月29日 下血。
2008年1月22日 大腸がんの診断。
1月23日 日本冬虫夏草を再開。主食は無農薬無肥料のキヨニシキ玄米。お酒と肉は止める。日本冬虫夏草の浣腸を試す。
1月29日 便がきれいになってくる。
2月13日 手術。20cm切除。
2月24日 退院。
4月15日 リンパ腺への移転なしと分かる。
5月13日 抗がん剤投与はやらないことに決定。
7月22日 CT検査、異常なし。

 

 FJ310012_SP0001.jpg「秋田県の玉川温泉で1週間の湯治を体験してきました。鍋釜持参の炊事でテレビ・ラジオ無しの生活、岩盤浴に明け暮れて不思議な世界を肌で感じました。九州から北海道まで何かしら体の悪い方々が毎日500人の出入りがあり、異様なお山の景観を拝してきました。家内も体が軽くなったと言っていました。現在私は服用している薬も一切無く、全く元気に過ごしております」

2008年11月4日のお手紙より

 

 「服用している薬も一切無く、変わらず元気に過ごしております」

2009年4月2日のお手紙より



 「大腸がんの手術から間もなく3年が経とうとしています。再発や転移とは無縁で、すこぶる元気に過ごしております。1月5日から毎日雪が降り続いております。毎日雪かきです。でも主なところは息子にやってもらってますので、頑張り過ぎることなく力を抜いて続けています」

2010年1月24日の奥様のお話より



 「変わらず元気にしております。検査からも卒業できました。山菜採りの季節になりました。天気の良い日は、新鮮な山の空気を吸いに出かけるつもりです」

2013年5月7日のお話より


 

【あとがき】
病気になったとき、本人や家族がかかえる不安と動揺ははかり知れません。できることなら静かな気持ちでより良い治療を選択し、原因をつきとめ、生活改善にも取り組んでほしい。そのためには、同じ病気になった人はどのような医療を受け、どのような経緯を辿るのかをよく知ることが前提となるはずです。そのような思いから、自らの経験が役立つのならと貴重な情報を寄せてくださった方々です。特定の治療を推奨したり、特定の治療を否定するものではございません。
体験談の虚偽記載は一切ございません。

当研究所の技術を真似た偽造品やコピー品にご注意下さい。

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