CASE7 : 同じ病院で同じ治療をされている方との違い

高橋初子さん(57才)の場合

HQ156_L_SP0000.JPG 「2000年4月半ばのことです。親戚の不幸が続いて休養もなく過ごしていました。そんな中、多量の不正出血が起こったのです。閉経後3年目のことでした。そして、腹部がひどく痛み、握りこぶし程のレバーのような固まりが出てきました。でも、まもなく正常に戻ったので、気に止めずそのまま過ごしていました。

 それから10日程経った頃、突然歩けなくなってしまいました。ひどいめまいにおそわれたためです。こうなるとさすがに放っておけなくなり、病院で検査を受けることにしました。そして、子宮体ガンと診断されたのです。

 思い起こせば、前年の夏にも少し、この年のお正月にも少し出血がありました。兆候があったんですね。でも忙しくて気にかける余裕はありませんでした。主治医は『子宮体ガンだけだったら手術して治るからね』と言ってくれましたが、精密検査で、子宮頸やリンパ腺にも広がっていることが分かったのです。卵巣も腫れていました。『難しい手術なので万全の態勢で臨みたい。腕の良いスタッフが海外出張から戻るのを待って手術しましょう』というのが、その時の病院側の説明でした。手術まで3週間という時間が与えられました。

 自分で何とかしなくては、ここで負けてはいられないと思いました。以前から日本冬虫夏草のことは知っていたので、早速、矢萩先生を尋ねました。悪いことは一切考えないように努め、自宅ではリラックスしながら日本冬虫夏草を毎日飲み続けました。


000068-b.jpg これまでの自分自身を振り返ると、発病の原因はストレスではないかと思いました。ここ20年間というもの特に後半の10年は娘の学費のために必死で働きました。もう少しというときに働いていた工場が海外移転をしたため、職を失いました。その後はやむなく内職を始め、休むことなく毎日ミシンに向かいました。同じ姿勢も良くなかったですね。工場勤めのときと違い、家に一日中いますから来客も多くなり、断れない性格なので仕事や夕飯の支度をとても気にしながらお付き合いします。さまざまなストレスが次第に自分のいちばん弱いところに歪みを作っていったのかもしれません。肉体的にも精神的にもギリギリでした。ようやく娘を大学院まで出して、やれやれと思った矢先でした。

 手術では子宮、卵巣、リンパ腺を1本摘出し、その後3回の抗ガン剤を投与することになりました。周りに同じような治療を受けている女性が4人いました。(4人の方のその後の様子は末尾に記述しております)しばらくすると、その人たちと自分には明らかな差があることに気付きました。皆は抗ガン剤の副作用でツルリと髪が抜けて帽子をかぶっているのに自分は目立った抜け毛がないし、あちこちで吐いているのに自分は一度も吐くこともない。看護師さんからは『初子さんは、どこが悪いのか分からないね』と言われる始末でした。不思議なほど呆気なく以前の健康を取り戻し、あれから8ヵ月が過ぎようとしています」

 初子さんは現在、顔色も良くとても元気です。仕事は辞め、大好きな読書をしながらのんびり暮らしているそうです。

朝日ウィル(北燈社)2001年2月13日号より

【経緯】

2000年4月半ば 多量の不正出血。
10日後 子宮体ガンの診断。
手術まで3週間あり。
日本冬虫夏草を飲み始める。
5月 手術後、3回の抗ガン剤投与。
抜け毛もなく、吐き気もなし。
同室の人たちとの違いに病院のスタッフが驚く。

 

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 「4月に病院で検査を受けて、先生から大変良い状態と褒められました。最近は野山に入り、山菜採りを楽しんでいます」

2002年5月22日のお話より

 

 「この度の検査でも全く問題なしで、再発もなく元気に3年5ヶ月が過ぎようとしています。日本冬虫夏草は現在でも続けています」
以前より体が引き締まり、さらに健康になられたという印象でした。

2003年10月1日にお会いして

 

 「手術から再発なく6年が経過しました。相変わらず元気で過ごしています」お嬢さんと一緒でした。

2007年1月2日にお会いして

 

 「手術から再発なく7年が経過しました。この夏、心臓に水が溜まり、短期間でしたが入院しました。医師に体重を減らすように言われ、7~8kg落としました。この頃は日本冬虫夏草をわずかしか飲んでいませんでしたが、しばらくは量を増やして飲んでみるつもりです。

 一方ガンについては、担当の先生が不思議がるほど完治して、心配はいらないそうです。2000年に手術のために入院した際、私の他に4人の女性が同室でした。皆、同じ病気です。3人は私の前に手術が済んでいて、もう1人の方は私の後に予定が入っていました。先の3人の方は残念ながら全員亡くなられています。もう1人の方の消息は分かりません。生かされていることに感謝しながら、同室で仲間だった皆のためにも健康維持に努め、長生きしなければならないという気持ちでおります」

2007年9月4日のお話より

 

 「検査が3ヶ月から6ヶ月間隔に伸び、『きれいに治ってるねー』と先生も驚いています。心臓の方も問題なく、日本冬虫夏草を飲みながらのんびりを心掛けて暮らしております」

2008年11月20日のお話より

 

 「手術から再発なく12年半が経過しました。定期検査も完全に卒業しています。今は全身痛いところも何も無く、健康で暮らしています。最近、自分の愛車を手放しました。歩かざるを得ない状況を作ったのです。老いは足からといいます。コースは違いますが、夫婦でウォーキングも楽しんでいます」                             

                                                                                                                                                                                                                                                2012年10月31日のお話より

                                                             

  心臓にトラブルが生じ、尿毒症のため72年の生涯を閉じました。寝たのは3日間だけで、それ以前はお元気だったそうです。がんについては『きれいに治ってるねー』と太鼓判を押されていました。お心優しく、最期まで多くの方に尽くされた人生でした。ご病気で苦しんでおられる方の力になりたいとご自身のお写真を添えて、体験談を実名で公開してくださいました。多くの方の心を照らしてくださいました。心より感謝申し上げます。ご冥福をお祈りしています。

 2014年8月29日ご訃報より

尾原正芳さんの場合

 「C型肝炎ウイルスに感染したのは19歳の時でした。肺結核を患いましてね。手術の際に受けた輸血が原因なんです。肺結核の方は完治しまして、10年間は何事もなく過ごしました。

 30歳になって、肝機能の検査データに異常が出始めた時、『A型肝炎ウイルスでもなければ、B型肝炎ウイルスでもないね。それでも確かに何者かが住みついてますね』という非A非B型という診断をされたんです。まだ世の中でC型ウイルスが発見されてなかった頃ですからね。C型ウイルスと確定されたのはそれから15年後の1992年のことです。


000052-a.jpg C型のキャリアーとわかってから長野県に転勤になり、単身赴任を余儀なくされました。茨城の自宅は新築したばかり、子どもたちは受験を控えていて経済的にも一番きつい時期でもありました。

 1996年初夏。とうとう肝臓に2センチ大の腫瘍が発生しました。患部は手術によって切除されましたが、これが1回目の手術となります。以前からインターフェロンの勧めはありました。でもうつ病等、精神的な副作用も出るきつい治療というでしょう。単身赴任の身の上であったし、避けて通ってたんです。

 手術から3ヵ月して、やむにやまれずインターフェロンの投与をスタートさせました。皮膚に薬疹が出て、痒みに悩まされましたが、私の場合はC型ウイルスの中でもインターフェロンが効き易い2b型ということで、3ヵ月でウイルスは陰性になりました。ウイルスがいなくなってもすでに肝細胞のあちこちが傷ついてるということなんでしょうね。手術から1年後に再び肝臓の5ヵ所に腫瘍が現れました。妻の勧めもあって、日本冬虫夏草を飲み始めたのはこの直後のことです。

 2度目の手術は10時間以上を要しました。朝8時に病室を出て戻れたのは夜中の12時。『手術はこれが最後。3度目はできないよ』と言われました。そんな中、不思議なことが一つありました。切除した5ヵ所のうち3ヵ所からガン細胞が全く見つからなかったというのです。大変な手術だったにもかかわらず、傷口の治り具合も前回より早いように思いました。

 このとき、同じように入院して手術をされた方が3名おりました。ところが1~2年の間に全員亡くなられたそうです。それを知ったときはとても残念で、手術だけでは不十分なのかなと思いました。

 その後もミリ単位~数センチ大の腫瘍が1年ごとに発生しますが、その都度、肝動脈塞栓術、エタノール注入、放射線治療で対応し、仕事を続けながらその場を切り抜けてきました。

 ところで、塞栓術では抗ガン剤も使用されますが、約2週間の治療の間、副作用がとても少なく、スケジュール通りの治療ができたことに主治医もビックリしていました。妻は『仕事の代わりはいくらでもいるんだから休んじゃえばいいのよ』と言っていましたね。私は典型的な仕事人間で帰宅するのはいつも10時~11時。結婚当初からそうでした。たまに8時、9時に帰宅したものなら子どもたちから『お父さん、今日は早いけどどうしたの?』と不思議がられる始末です。妻はせめて単身赴任がなかったら発ガンは避けられたのではないかと思ってたようです。 
 

病院の治療を一切やらずに消失

000052-b.jpg 2001年6月。5~6ミリ大の腫瘍がまたしても現れました。そして、『3ヵ月後に再検査して、それから治療しましょう』ということになったのです。その頃私は、単身赴任から解放されて、いいかげんだった食生活を妻の考案した健肝食にガラリと変えていました。無農薬野菜、玄米、自家製のシジミエキス、ゴマ等の種子類、海草類です。肉は1ヵ月に1回食べるかどうかです。また、一人の時と違って、家族と一緒ですと仕事上の責任や対人関係のトラブルからくるストレスもずいぶん軽くなるんですね。飲んでいた日本冬虫夏草の内容を変えたこともありました。

そうしたら3ヵ月してMRIで再検査をすると、『あれっ、この辺にあったのに見当たらないね』と言われて。あったはずの腫瘍がきれいに消えていたのです。この間、病院の治療は一切ありません。それからというもの、再発とは無縁で今日に至っています。私は、タバコとお酒は全くやりませんが、仕事中毒はやめられないようです。それでもストレス解消、日本冬虫夏草、妻の健肝食にささえられて再発しない記録をこれから先ものばしていきたいと思ってます」

朝日ウィル(北燈社)2002年4月16日号より

 

【経緯】

1966年 19歳
肺結核の手術。輸血あり。
肺結核は完治。
1977年 30歳
輸血から肝炎ウィルスに感染したことを知る。
ウィルスの型は非A非B型とされた。
1992年 45歳
C型肝炎ウィルスのキャリアーと確定。
1996年6月 49歳
肝臓に2cmの腫瘍。
9月17日
1回目の手術。切除。
12月20日
インターフェロン投与開始。
1997年3月
C型肝炎ウィルスがなくなり、陰性。
6月20日
インターフェロン投与終了。
9月2日 50歳
肝臓に5つの腫瘍。
「手術は最後、3度目はできないよ」と言われる。
9月6日
日本冬虫夏草を飲み始める。
10月7日
2回目の手術。
切除した5ヶ所のうち3ヶ所からガン細胞見つからず。
1998年〜2000年
その後も1年ごとに腫瘍発生。
肝動脈塞栓術、エタノール注入、放射線治療で対処。
塞栓術では抗ガン剤も使用するが、副作用がとても少なくスケジュール通りの治療ができたことにビックリされる。
2001年6月 53歳
5〜6ミリ大の腫瘍発生。
食事を健肝食に変更。
飲んでいた日本冬虫夏草の内容を変える。
9月
MRI検査で腫瘍消滅。
この腫瘍に限り病院の治療一切なし。

 


 

「腫瘍が消失してから再発なく5年8ヶ月が経過しました。仕事人間の主人も来年3月で定年を迎えます。元気でやっております」

2007年5月30日奥様のお電話より

 

「6年以上再発がなく、定年まで残り1ヶ月となった2008年2月。CT検査で2cmの腫瘍が見つかり、5月にラジオ波での治療を行いました。これはお腹を切る必要がなく、ラジオ波の熱でもって患部を焼く治療です。(エコー画像を見ながら)患部まで針を通す必要がありますが、痛みはなく、1時間で終了しました。

 時代とともにさまざまな治療法を試してきました。外科手術に肝動脈塞栓術(ガンの兵糧攻め)、エタノール注入に放射線照射。肝臓ガンの治療法は進歩を続けていて、ラジオ波は現時点で最先端の方法といえます。

 先生は『焼き残しがあるかな』と何度か言ってましたけど、2008年10月のCT検査ではきれいに消失していました。2009年1月末の検査ではγ-GTPの数値が高い以外は肝機能のデーターは全て正常、腫瘍マーカーも正常です。

 振り返ると再発の直前には必ず大きなストレスがありました。休日も携帯で呼び出されることは珍しくなく、休みなく働きました。2008年3月に定年を迎えてからも同じ職場に通い、仕事を手伝っていますが以前とは全く違います。責任が外れて精神的にずいぶん楽になりました。ようやく肝臓に良い環境となりました。

 先生からは『あなた2回死んでてもおかしくないよ』と言われています。仕事しながらここまでこれたのは、事あるごとに日本冬虫夏草が側にあったからでしょうか。今は不思議なくらい疲れないし、何の自覚症状もなく元気で働いています」

2009年2月1日のお電話より

 


山川さゆりさん(仮名)の場合

 「私が左の乳房のしこりに気付き、宇都宮の病院で検査を受けたのは1995年10月のことでした。結果 が出るのは1週間後。不安でしかたなく、すぐに母親のところに走りました。というのも、以前母が人間ドックで肺に異常が見つかった時、日本冬虫夏草を取り寄せ飲んでいたのを思い出したからです。早速譲ってもらって飲み始めました。(母はその後異常なしとの診断をもらっています。影は幼少の頃からあったものだそうです)

000085-a.jpg 矢萩さんにも電話をしました。すると『山川さん、ちょっと仕事を休んで、好きな時に寝て、好きな時に食べて、好きな時にお風呂に入って自由にのんびりやればいいんですよ』とおっしゃる。その頃の私は、ガンというものの本質が分かってなくて『いったいこの人は何を言ってんだろう?』と理解に苦しんだのを覚えています(笑)

 1週間後、結果を聞きに行くと『乳ガン。2cmと4cmくらいの腫瘍』と診断されました。そこで乳房を全摘してリンパも取る手術を勧められたのです。手術は3週間後と決まりました。女性なら誰でも願うように乳房は失いたくないと思いました。手術まで時間があるので、ガンに関わるものであれば、本でも雑誌でも何でも読みあさりました。ガンというものはどうしてできるのか、どうすれば消えるのか、病院の治療は、治った人はどういう道を辿っていったか、経験者からも遠慮なく話を聞きました。

 日本冬虫夏草は毎日350cc、チビリチビリと飲み続けました。それは私のお守りのような存在でした。間もなくして、長い間悩んでいた便秘が解消されていることに気付きました。また、私は昔から手首に脂肪の固まりのコブを持っていて、久しぶりに会った伯母が『どうしたの?コブが小さくなってるよ』と言うのです。食事療法も始めました。主食は玄米、野菜をよく摂って、乳製品と白砂糖の入った甘いものは食べないようにしました。それから血行をよくしなければと、スタイルを意識して身に付けてたボディスーツを脱ぎ捨てました。

000085-b.jpg 休暇届を出して自宅療養と決め込みましたが、夜はなかなか寝付かれず、眠りに就くのが12時過ぎ、朝は5時には目が覚めてしまいます。でも、主人と息子たちに朝食の用意をして、送り出して、日本冬虫夏草を飲むとようやくリラックスして眠くなってきます。そこから朝風呂に入って、テレビを見ながらご飯をゆっくりいただきます。そして日本冬虫夏草を胸にシップして9時から昼まで朝寝をするのです。誰にもわずらわされずにこのようにリラックスしてひとりの時間を持てるとは、今までの生活からは考えられないことでした。

 その頃の私は、4月に転勤となってから、新しい職場での上司や同僚との確執に、家庭での夫やその親戚 との確執が加わり、毎日イライラして仲の良い友人ともうまくいかなくなっていました。まさに八方ふさがりの中、心休まる場所はどこにもなく、そのストレスが免疫力を低下させて発病の引き金になったのでしょう。突然手に入った日中のひとりの時間は、かけがえのないものに思えました。

 日本冬虫夏草を飲み始めてから2週間目、胸のしこりを自分でチェックしてみると、二つあった腫瘍のうち2cmのものはどこにもなく、4cmのものもよく探さないと分からないほど小さくなっていました。

 いよいよ手術前日という時、診察室で私は主治医に頼みました。わずかに残った患部だけを摘出して乳房は温存してもらえないかと。でも『予定通 りやります。乳房やリンパは今後転移する可能性が高いので事前にとってしまった方が安全ですから』と取り合ってくれませんでした。転移どころか実際に患部の一つは消えて、もう一つは小さくなっているのに、これから転移すると言われてもピンときません。父と主人は『胸の一つや二つより命の方が大事』と説得にかかります。私を心配する気持ちはとてもよく分かりました。

 虚しい気持ちで病室に戻ると、私に面会したい人がロビーで待っていると連絡が入りました。その人は、この病気がきっかけで友達になった同じ病気をもつ女性でした。下に降りていくとご主人と一緒にたたずんでいました。それは私が真夜中に病院を脱走する12時間前の出来事でした」(2003年4月15日号に続く)

朝日ウィル(北燈社)2003年3月18日号より

 

「彼女は手術の跡を見せてくれました。明日、私が同様の手術をすることを知って駆けつけてくれたのです。『転移や再発がないようにと、乳房もリンパも取り、ホルモン注射を続け、検査のために何度もレントゲンを当て、その結果 がこの度の再発です』私のようになってはいけないよ。彼女の思いが伝わってきました。

 心は揺れました。夜が明ければ手術です。眠れるはずもなく、病室の薄明りの中でパラパラと週刊誌をめくっていました。すると乳房温存療法に取り組んでいる病院の記事が目に飛び込んできたのです。自分の望む治療をやってくれる病院はある。もうここにはいられない。ようやく決心がつきました。そのまま病院を抜け出しました。

 1995年11月4日、午前2時のことでした。そして4時間後には東京行きの電車に乗っていました。週刊誌に載っていた病院に向かうためです。私は、車中であろうとプラットホームであろうと、日本冬虫夏草のビンを抱えて始終チビチビ飲んでいました。周囲からどう見られようと、そんなの関係ないの。今思えば、近寄るのをためらうようなちょっと異様な姿だったと思いますよ(笑)

 病院は大塚にありました。受け付けを済ませて主人に電話を入れると、私宛てにFAXが入っていると言うんです。それは温存療法に取り組んでいる病院のリストでした。送り主は、いつも私のことを心配し、励ましてくれている人です。私がそういった病院を探しているのを知って、見つけてくれたのでした。すぐに電話を入れ、大塚の病院に来ていることを告げると『そこはダメ、温存療法をやらないどころか抗ガン剤も一所懸命使うところ。すぐに出てK病院に行きなさい』診察室から呼ばれる寸前でした。保険証を奪い取るようにして病院を出、電車に飛び乗りました。2度目の危機一髪でした。

000085-c.jpg 3番目に辿り着いた病院は、土曜の午後ということもあって診察はもう終わりでした。予約を入れて1週間後に改めて診てもらうことになりました。地下に売店があったので、担当してくれる先生の書かれた本を購入して帰りました。電車の中で本を開くと、私の中で釈然としなかった数々の疑問が、明確に解かれていました。私の考えは間違っていない、そう思ったら急に涙があふれてきました。長い長い1日でした。黄昏の車中で、何度も涙を拭きました。とうとう念願の温存療法をしてくれる病院に行き着いたのです。

  ここに至るまで、良いという療法があれば何でも試しました。音楽で病気が癒されると聞いて錦糸町にも行きました。食事療法やカイロプラクティックも試しました。習志野にある香澄診療所へも伺いました。日本冬虫夏草を治療の中に取り入れていると聞いたからです。

 何回かの治療の中で廣瀬薫先生は、私に、本人から許可を得た1枚のカルテを差し出しました。乳ガンの末期患者で、ガンセンターに見放されたという女性のものでした。ところが日本冬虫夏草を飲み続け、元気だというのです。死と向かい合っていた私に、光が差し込みました。明るい幕張の海岸沿いの風景を眺めながら、心の迷いが消えて、自分らしく歩き出せることの幸せをかみしめていました。

000085-d.jpg 1995年12月7日。希望通り、患部だけを取る手術を行いました。乳房は残りました。形もほとんど変わりません。その病院には、乳房を残したいという一心で、探し当ててやってきた女性ばかり9人が入院していました。 その後、その方たちとの会話の中から、いろいろなことを学んでいくことになるのです」

朝日ウィル(北燈社)2003年4月15日号より

 

 左の乳房に2cmと4cmの腫瘍がありましたが、手術の前には2cmのものはすでに消失して、4cmのものはよく探さないと分からないまでに小さくなっていました。さらにその患部はやわらかく変化していました。

 「手術は3時間を要したものの痛みもなく、次の日には外出できるほどの簡単なものでした。何とか乳房はそのまま残すことができました。実は摘出した患部は見てないんですよ。うっかりしました。頼んで見せてもらえばよかったですね。ひょっとしたらガンではなくなっていたかもしれません。

 その病院には、乳房を残したいという一心で、全国から集まってきた女性ばかり9人が入院していました。彼女たちは食事療法はやっていて当たり前、教養があってパワフルで、病気や治療についてかなり勉強されてるという印象でした。ぼんやりしてる人は誰ひとりいなかった。治すことに決して受け身じゃないんです。『うゎ~、先生にそこまで要求しちゃうわけ?』と驚くこともありました。私は相変わらず日本冬虫夏草のビンを抱えてチビチビやってましたから『冬虫夏草の山川さん』と皆に呼ばれていました(笑)

 できるだけ自然療法でと思っていた私も、術後の25回の放射線照射は避けられませんでした。それでも抗ガン剤投与は、1回やったところで断りました。そのためには少々知恵を絞らなくてはなりませんでした。同じ病院でも、先生によって考え方が少しずつ違うということが判ったからです。私を担当してくださった先生は、実際には本の著者とは違う先生で、抗ガン剤をよく使われていました。完全に西洋医学寄りで、病室で自然療法や食事療法などの本を見つけた時なんかは、一言皮肉を言って帰られましたから。直接断っても無理と判断し、東洋医学や食事療法の理解ある助手の先生に相談したんです。そしたらスンナリ抗ガン剤は中止となりました。

 入院中に皆と明らかに違うと感じたのは、生理が普通にやってきた時です。他の人は皆止まりましたからね。10人中9人が止まったのです。また抗ガン剤を投与した回数に関わらず、抗ガン剤の最後の投与が終わった時点から3週間目になって、皆さん髪が抜け始めるのでした。『お風呂の排水溝に髪の毛が詰まるわよ』と言われて、髪を洗わないでおこうと思いました。でもさすがに我慢できなくなって洗うと、これが抜けてこなかったんですよ。髪が抜けた人たちは揃って真っ白い顔をしていました。それでも皆で言いたい放題おしゃべりして笑っていたからでしょうか。比較的元気でした。

 ガン仲間であり、現在も交友を続けているSさんが、乳ガンの女性の共通 点を分析していました。明るい人も、太っている人も痩せている人も胸の大きい人も小さい人も関係なくガンになっている。共通 点はなかなか見つからない。そんな中でようやく掴んだのは、皆さんが発病する前に『眠れない日が続いた』ということでした。心の平穏をしばらく失っていた時期があるのです。

000085-e.jpg 外泊も含めて入院生活は2ヵ月に及びましたが、歳いった人から若い人まで全国津々浦々からやってきた女性たちとの出会いがあり、どの方のお話も大変興味深く、毎日ワクワクして過ごしました。素晴らしい女性たちばかりでした。あの時ほど面 白かったことは生涯ないかもしれません。病院に運んでくれた東武電車を見かける度、今でも懐かしさと楽しさが込み上げてきます。治療を探し求めて歩く旅もとても幸福な時間でした。私にとってはバケーションそのものだったのです。

 あれから再発もなく元気で、今年で8年目を迎えました。仕事に忙しい毎日ですが、追い詰められた状況にしないこと、食べ物に気を付けること、そして何よりもクヨクヨしないようにと心がけています。

 病気になったことで得たものは多く、ガンは克服できること、治す力は誰にでもあって、引き出せるかどうかは自分次第、諦めてはいけないこと、そして何事にも感謝する心を持つことを学びました。病気で悩んでいる人がいれば、できるだけ力になりたい。

  私は今、職場の管理職試験を受けようと頑張っています。また書道の師範の資格も取ろうと思っています。健康に不安があっても日本冬虫夏草があるという安心感は、私の何よりのお守りだと思っています。もしかしたらその安心感が私を健康にさせてくれるのかもしれませんね」

朝日ウィル(北燈社)2003年5月20日号より

【経緯】
1995年10月13日 片方の乳房のしこりに気付き、検査に行く。
日本冬虫夏草を飲み始める。
10月19日 検査結果が出て乳ガンと告げられる。
2cmと4cmの腫瘍。
10月26日 2cmの腫瘍はどこにもなく、4cmのものはよく探さないとわからない程小さくなる。
11月3日 入院先で、主治医に乳房温存療法を願い出るも聞いてもらえず。
11月4日 手術日。未明に病院から抜け出す。
K病院に行く。
12月7日 患部だけの摘出手術。乳房は残る。
その後25回の放射線照射。
抗ガン剤投与1回終わった時点で中断。

 昨年9月に父が脳梗塞で倒れ、介護の一年を送っていました。医師からは何度も危篤状態を告げられましたが、その度に父は復活し、その生命力には驚かれます。それでも先月は、肺炎に加えて腸からの下血があり、『再び出血したら命はないでしょう』と言われ、親族を呼び寄せる事態となりました。腸が壊死しているということでした。でも不思議なことに父に面会した皆は『顔色いいよね』と口々に言うのです。それを主治医に話すと『体の外と内は違いますからね』と言い返されました。

 それでもあきらめきれなくて、知り合いの気功の先生を頻繁に病室に呼んで気をあててもらったり、飲ませていた日本冬虫夏草を今度は浣腸してみることにしました。市販のイチジク浣腸の中身を捨てて代わりに日本冬虫夏草を入れて。一番多い時(危篤時)で1日4回、2本ずつ浣腸しました。『お父さん、これで良くなるからね』と常に声をかけながら...。床ずれした部分にはオトギリソウをつけてあげました。39度まで熱が上昇した時も、めげずに自分でやれることを続けました。すると次第に、酸素マスクが外され、鼻にあてる簡単なものになり、それも外され、水枕も取れて楽になっていったのです。肺炎も治り、床ずれも治っていきました。

 そしてこの度のCT検査。腸の画像を見て、主治医は大変驚いていました。『壊死した部分が治っている』と言うのです。そのことを気功の先生に話すと、『人間の体には信じられない程の治す力があって、まだ科学では解明されていないことが多いのです。つまりまだ見えていないものの中にこそ真実があるのです。その力を抑えるのではなく、引き出せる環境であるといいですね』と励ましてくださいました。

「私は手術から再発なく12年が過ぎました。ここを元気で乗り越えて行かなくてはなりません。日本冬虫夏草は父と一緒に飲んでいます」

2007年10月11日のお電話より

 

「がんばっていた父でしたが、とうとう旅立つ日がやってきました。2008年4月19日のことです。最愛の父との別れにひどく取り乱す自分を想像したこともありましたが、悲しみは全くなく、不思議なほど静かに受け止めることができました。1年前の自分だったらこうはいきませんでした。IMGP1632_SP0000.JPG

 そういう心の境地に導いてくれたのは父の力です。ここまで到達するのを力を振りしぼって待ってくれたのだと思います。私も仕事と介護の両方に力を振りしぼって振りしぼってもう何もでないところまできていました。二人で精一杯やった先に辿り着くこのように静かで穏やかな場所があるとは考えもしないことでした。

 私は何の宗教も信じていませんが、これまでの人生を振り返ると出会いや出来事ががすべて組み込まれているのではないかと思えて仕方がないのです。すべてが完璧なタイミングで現れて、その意味を後になって知るというような繰り返し。苦難も苦労も有難く思えてきます。

 最期に父と交わした言葉は『ご苦労さん、ありがとう』でした」

2008年5月25日のお電話より

【あとがき】
病気になったとき、本人や家族がかかえる不安と動揺ははかり知れません。できることなら静かな気持ちでより良い治療を選択し、原因をつきとめ、生活改善にも取り組んでほしい。そのためには、同じ病気になった人はどのような医療を受け、どのような経緯を辿るのかをよく知ることが前提となるはずです。そのような思いから、自らの経験が役立つのならと貴重な情報を寄せてくださった方々です。特定の治療を推奨したり、特定の治療を否定するものではございません。
体験談の虚偽記載は一切ございません。

当研究所の技術を真似た偽造品やコピー品にご注意下さい。

ご注意下さい